斬「人魚」編

 ずどん、と行く先を塞いでいた大岩が押しのけられて大地を激震させる。森一帯に響いて一斉に鳥たちが飛んだ。
「…………」
 大岩を見下ろせば、自動車ほどもある。凄まじい超重量。そんなものを押しのけて見せたのは、目の前の小さな背中の少女だった。
 高瀬アユミちゃん、にこにこ笑顔の十四歳である。
「はいっ、できたよ羽村くん」
「あ、ああ……」
 冷や汗を拭う。振り返った赤髪ショートボブの少女はふわふわにっこり。その白い細腕のどこにそんな力があるのか。相変わらず相方サマの腕力は、見た目と反比例に常軌を逸している。
 『怪力』。
 現代日本にあるまじき不条理だが、見慣れたものだ。
「こんな山の中、滅多に来ないよねぇ」
「そうだな。何か見るものがあるわけでもないしな」
 縁条市はずれ際の山の奥。木々の隙間のような小道を、少女と並んで歩いていく。空は清々しい晴天。実にハイキング日和ではあるのだが、残念ながら今日の目的はピクニックではない。
「死者は出てないんだっけ?」
「ああ、死者は出てない」
「それもへんな話だけどねぇ」
 ぽややんな愛らしい疑問符とともにアユミが口にしたのは、ダークファンタジーだった。
「森の奥の湖に河童が出るんだよね」
「そうだな。湖の底に引きずり込まれて殺され|そうになる《・・・・・》らしい」
 確かに妙な話ではある。河童も奇妙だが、それで溺死しないというのがもうひとつ奇妙だ。そこでアユミちゃんが素直な疑問符。
「カッパって、なんよ?」
「なんで方言」
「悪いやつですよ。人をわざと溺れさせるなんて」
「そうだな。考えたくもない」
 溺死系のホラーは苦手だ。人間は地上の生物なので、水の中ではなす術もない。特に俺のような、地上でも無能だの縁条市最弱だの言われてる人間には厳しいものがある。
「はぁー」
 俺の名前は羽村リョウジ。ただのつまらない新人異常現象狩りで、個性の強い狩人たちの中でも何の特徴もなければ実力もない、退屈な人間だ。
 ついた不名誉な呼び名が『無能』。少し悲しくなりながら、相方さんに助けを求めてみる。
「アユミ、俺の特技って何だと思う?」
「えっ? 他力本願?」
 まるで俺の特技ではないが、たしかに俺の特技だ。例えば大岩が道を塞いでいて進めなくなったら、努力する前にさっさと怪力少女に大岩をどけてもらったり。|羽村リョウジ《おれ》はそんな程度の人間だ。
「お」
「え?」
「見ろアユミ、そこの木の陰」
 うずくまる人影がいた。人ではなく、影。体育座りでまるで動こうとしない中年男性だった。一見遭難者のようだが、その輪郭がバチリと霞んだのを見逃さない。
「ユーレイさんですな」
「ああ、亡霊だけどな」
 ユーレイと亡霊は、俺たちの考えでは微妙に実態が違う。ユーレイとは残留した魂そのものを指し、架空のもの。実在しないので空想だ。対して亡霊とは、生者が残した|感情の《・・・》残照。こちらは実在で、世にシミを残すほどの負の感情とそれから生まれた幻想を、俺たちは“呪い”と呼んでいる。
「……動かないね」
「ああ。無害だろ」
 呪いには無害なものと有害なものがある。こいつは石のように動かず、話しかけてもぴくりともしない。ただそこにいるだけの無害な存在だ。無視して歩き出す。
「そういえば羽村くん、カッパって第五なんだっけ?」
 第一の『亡霊』を始めとし、世の中に実在する異常現象は大きく五つの『五大異常現象』に分類される。
「カッパか。たしかに、本当にカッパだったら第五現象だけどな」
 しかしながら、第五現象には目撃例がない。歴史上一度も。カテゴリとしては存在するが、誰もそんなものは見たことがないのだ。
 鳥人間かと思ったら、飛行の呪いを持ってるだけの呪い持ちだったり。ワニ人間かと思ったら、捕食の呪いを持ってるだけの呪い持ちだったり。天使かと思ったら、翼の呪いを持ってるだけの亡霊少女だったり。ほとんどの場合、第五現象のように見えたけどニセモノだった、というオチがつく。
 ちなみに亡霊は第一現象だが、呪い持ちの生者は五大異常現象には数えられない。
「そっかー。やっぱり第五現象は幻なんだね」
「ああ、今回のカッパもそうだろ。本当にカッパみつけたら先生に自慢できるかもな」
 そんなことは万に一つもありえない、ということだが。
「実在するとしたら何かなぁ。ツチノコかなぁ」
「さあ。美人の人魚とかじゃね」
「それは羽村くんの希望かな?」
「かもな?」
「わたしはネコ型バスを期待するよ」
「そんなバスあったか?」
「となりにいるよ!」
「どこだよ」
 どこまでも森は深く、岩と緑しかない。進んでも進んでも無人。つまらない無駄話に興じて時間を潰しながら、ようやく目的地にたどり着いたのだった。
「…………ほほう」
 大きく空間が拓ける。滝のほとりの、霧がかった大きな泉だった。溢れんばかりに生い茂る植物。針葉樹の幹を蔦が巻いている。切り開かれた崖の真ん中を、水流がアーチを描いて降り注ぎ、小さな虹を生む。泉は底が見えない程度に深いが、浅瀬の辺りでエメラルドグリーンの水面にぽつぽつと百合の花なんかが浮かんでいるのは風流だった。
「……着きましたな、羽村くん」
「そうだな。思ってたより綺麗だ」
「ていうか不自然に綺麗だね。これも呪いの影響なのかな?」
「間違いない。なんかファンタジーっぽく霧に覆われてるし、なんとなく、平常時の写真より広い気もするしな」
 ここへ来る前に資料に目は通してある。確かに風流で風情があるのだが、ここは北海道阿寒湖ではない。ただの中途半端な街のはずれにある裏山程度の存在だ。こんなファンタジーで観光地っぽいはずがない。
 ならば答えはひとつ。この場所は、既に呪いが生み出した幻想に侵食されてしまっているのだ。
「………やるねぇ。どんだけ溜め込んだんだか」
 呪いは、抱いた願望を成就するために『幻想』をこの世に産み落とす。起こりえない異常を発現させるのだ。それは怪物であったり、手から出る炎であったりとまちまちだが、こんな風に神秘的な泉を創造するなんて芸当も可能だ。もとから泉があったぶん、形成しやすかったのもあるのだろう。
「まったく。あきれたね」
「河童はどこにいるのかな」
「ん……」
 ちゃぽんちゃぽんと泉の水が跳ねて気付いた。滝の上から小石が落ちてきたのだ。顔を上げれば、崖の上にいまにも落ちてきそうな大岩があるのを見つけた。そうそう落ちるもんでもないのだろうか? しかし、トラブルの種は摘んでおくに越したことはない。
「アユミ、河童の前に安全確認だ。あの岩、見てこれるか?」
「ん――ほい、お安い御用だよ」
 たん、とアユミが跳躍する。その衝撃で大地が軋んだ。身軽に崖の引っ掛かりを跳ねて、忍者のように上へと登って行く。怪力ってのは何も腕の力だけじゃないので、脚力を生かしてああいう使い方もできるわけだ。
「さて、と……」
 泉に近寄って、水面を見つめてみる。そこに映るのは気怠そうな片ピアスの少年の、死にきったサカナの目。まるで光がない。いつも気怠そうで、悩ましそうに眉間に皺を寄せている。俺だった。
「はぁ」
 退屈そうな顔をしている。さてアユミは無事登れたんだろうか、と顔を上げた瞬間。
「――――!?」
 俺はすでに水中にいた。周りはすべて水。掴むものは何もない。右足首が強い引力に引き寄せられていて、ぐんぐん水の底へと引きずりこまれている。
 叫ぼうとするが、空気を消費してはいけないと口を塞ぐ。混乱しきった頭で必死で冷静さを取り戻そうとするが、まるでうまくいきやしない。突然のことに完全にパニックを起こしていた。明るい水面に手を伸ばしながら、どこまでも沈んでいく。泉ではあり得ない、現実を無視しきった水深。一体何が俺の右足を引きずり込んでいるのかだけは突き止めないといけない。完全に溺れながら、死に物狂いで下方に顔を向けて――――俺は、見た。見てしまった。俺の足首を掴んで溺れ死にさせようとしているバケモノの、その醜悪な両眼を……。
 ――ああ、酸素がなくなってきた。命尽きる。やっぱり人間は水中では何もできない。頭の中まで水で満たされたように、何も考えられなくなったくる。ここで、終わりだ。
「……………、」
 海藻のように漂う。水面は明るいのに、あんなにも遠い。ゆらゆらと揺れる。死の間際ってのは穏やかだ。このまま、薄れるインクのように俺という意識は拡散していくのだろう。
 そろそろ走馬灯でも思い浮かべるか、と考える頃――何かが、太陽を見ていた視線を遮るのだった。
 影になった、不可解なシルエット。上半身は人間だが下半身は魚。神聖な後光を纏っている。長い髪が、水中にも関わらずふわふわと美しくなびく。
 その何者かが手を差し伸べてくる。冬の雨を塗り固めてできたような深い青の瞳。
『――――しっかり……!』
 間違いなく、幻聴だった。



 霧は、いっそう濃くなっていた。
「う……!」
 目を開けるが、一瞬自分がどこにいるのかも掴めなかった。ホワイトアウト寸前の視界の中で、痛む頭を押さえながら体を起こす。俺が倒れていたのは岩場だった。すぐそこに泉がある。
「溺れた……よな」
 溺れさせられた、が正しいが。しかし何があった? 水中で朦朧としていたせいでまだ記憶の整理が追いついていない。自分の右手の平を見下ろすが、水に濡れていること以外は正常だった。不意打ちのように、怪物の醜悪な双眸が飢えたように俺を見ていたことを思い出す。
「…………河童、か」
 口に出してつぶやいてみる。やはり、例の怪談は真実だったようだ。ちらりと上を見上げた瞬間に足首を掴まれて引きずり込まれた。たまったものではない。
「くそ……」
 拳を握る。何もできなかった。ただ一方的に殺されかけただけ。確実にあのまま死ぬだろうと確信していた。まったくふざけている。逃げようがなかった。しかし、死の直前、誰かが俺の腕を引いて助けあげてくれた気がしたのは錯覚だろうか――?
「あなたは河童に襲われたのです」
「――は?」
 どこからか、美しい玲瓏の声が聞こえた。しかし隣には誰もいない。目を向ければ、泉におかしなものがいた。
「…………何やってんだ、アンタ」
 泉に浸かった女がいた。鼻から下が水中にいて、見えるのは鼻から上と、岩に引っ掛けた両手だけ。子供の隠れんぼのようだった。少女漫画みたいな美しい青色の瞳。すごい美女だ。どう見ても奇行で、変人だけど。
「いえ、私はここが落ち着くのです」
「水の中が? 警察に通報すべきかな」
「おやめください。警察は恐ろしいです」
「後ろ暗いことが何もなければ、助けてくれるはずだけどな」
「実は服を着ていなくて」
「その割にはぷかぷかと羽衣みたいなのが浮かんでるのが見えるが」
「きっと水死体でしょう」
「俺のかな」
「はい、あなたのです」
「………」
「…………」
 何なんだ、こいつ。頑なに水から出ようとしない。覗き込もうとしたら手で制される。
「鼻から下をマスクで隠してると美人に見えるらしいが、アンタもその類か?」
「失敬な! 鼻から下もれっきとした美人です、ほら、ほらほら。特に唇の下のほくろがチャーミングでしょう?」
 自分の口元をアピールする女。その肩が、濡れた割にさらりとした不思議な質感の布に包まれていた。
「着てるじゃねぇか」
「め、目の錯覚なのでは?」
 また口まで水に浸かる女。怪しさしかない。刃を突きつけて脅迫する。
「そっから出ろ。何を隠してやがる、あァん? 実はホントに死体でも引きずってんのか」
「………………」
「あるいは水死体でも引きずってんのか、もしくは水死体でも引きずってんのか。一体そこで何やってる。明らかに不審者だろうが、もしかして水死体でも引きずってんのか」
「……分かりました。そこまで水死体言われては仕方ありません」
 ざばん、と水から体を出す女。岩に水が跳ねる。白い緩めの、装飾がついたシャツを着ていた。岩に座り込むと、下半身は鱗に覆われたドレスを着ていて、足がなかった。
「――――」
 足がない。ドレスではなかった。代わりに魚のような鱗と、魚のような尾びれがあった。女はこちらをその海のような青い目で見上げている。上半身は美しい人間の女性だが、下半身は魚。もはや竜のようでさえあったが。
「ああ、人魚か」
「はい、人魚でした」
 つまり人魚だった。自分の子供の頃に絵本で見たであろう知識とも合致する。
「なるほどねぇ。縁条市に人魚が住んでたのか」
「はい、人魚住んでました。この泉に」
 軽い口ぶりに反して、神々しいまでの美貌。霧の合間に光が差し、麗しい微笑を神秘的に飾り立てる。青の目が、深すぎていっそ魔的だった。
「…………ふーん」
 このクソ地方の、山の泉に。言うまでもなく、そんなことは|あり得ない《・・・・・》のだが。
「名前はナギといいます。あなたの命の恩人です」
「そうか、俺を引っ張り上げてくれたのはアンタだったか」
 覚えている。溺死する寸前、俺の手を掴んで引っ張り上げる、青の双眸の何者か。それが目の前のナギさんとやらだったのだろう。
「はい、命の恩人です。命の恩人ですよ?」
「…………」
 きらきらと輝く宝石箱の目で見つめられる。何か期待されているようなので、ゴソゴソとポケットを漁ってみた。いいものがある。
「これをやろう」
「? これはなんです?」
 小さな、四角形のビニール袋を投げ渡してやる。中にはパラパラと乾燥した何かが入っている。
「ニボシだ。魚を干したやつ。カルシウムが高い」
「…………ほう。へへぇ。」
 不服そうな半眼で見られる。瑞々しい人魚サマ。その輪郭が一瞬バチリと霞み、元に戻る。俺は何も言わずにその変化を見ないふりした。ぺし、とニボシを投げ返される。
「いりません! べっ!」
 見た目こそ女神じみてるが、どうにも子供みたいなやつだった。しかしよく分からない。人魚なんてものに出会うのは初めてのことだ。
「あんた、この泉に住んでるのか? 狭くないのか」
「そんなこと言ったって、仕方ないじゃないですか。海へ行けるわけでもないですし」
「川下りにチャレンジしようとは思わねぇのかよ、井の中の蛙」
「無理ですね。目立ちすぎでしょう、きっと水の浅い場所もたくさんありますし」
 すいー、とイルカショーのように優雅に泳いで見せるナギ。きらきらと輝く陽光に滝の飛沫、美しい水面。白磁のような肌を水で撫でて、気付いたように微笑みかけてくる。
「なんですか?」
 屈託のない笑み。まるで邪気がない。どこぞのお姫様のような容姿だが、その無防備で人懐っこい笑みは都会に出たことがない田舎娘のようだった。
「はぁ」
 やれやれ、と霧の濃い空を見上げる。ここだけ閉じてしまったように、視界が悪かった。こんな狭い泉で生きているらしい命の恩人さんが、ひどくかまって欲しそうなので、俺はくだらないことを口にする。
「ご趣味は」
「ふふっ、お見合いですか? そうですねー。お琴を少々」
「琴があるのか」
「ないですけどねー。一度弾いてみたいような気もするんです」
「それは遠まわしに要求してるのか」
「いえいえ、別に恩人特権を振りかざしているわけではないのですけどね?」
 優雅な背泳ぎ。さすが人魚、見たこともないくらい器用に自然に泳ぎやがる。
「あなたの名前はなんですか」
「羽村リョウジ。ただのしがない狩人だよ」
「狩人? イノシシでも撃つんですか? ばぁん!」
 猟銃を撃つモノマネ。からからと明るく笑う人魚だが、俺の脳裏には陰惨な異常現象狩りの記憶がよぎった。忘れよう。
「ま、そんな所だ」
「私、いつからここにいるのか分からないんですよ」
「へぇ?」
 水中に立ち、揺れる水面を見つめる海の瞳。
「きれいな泉。まるで私の理想の景色。けれど、ここには誰もいない。誰もいないんです」
 静かな水音だけの空間に、さみしげな硝子の声がさらさらと流される。
「どうしてここにいるのか、いつからここにいるのか、なぜここにいるのか、どんな経緯でここにいるのか、そして何よりなぜここにとどまるのか。私はひとつも答えを持っていません。あるいは、|そんな機能はない《・・・・・・・・》のかも知れません」
 バチバチと、輪郭がぶれた。半透明はまた実体を取り戻し、正しく人魚の形に戻って美しい微笑みを象る。少しずつ空の霧が晴れてきたのを、少女は見上げる。
「自然の景色は美しいけれど、そればかりだと退屈するだけ。本当は自然なんて殺風景なものなんです。どんなに生き物がたくさんいたって、騒がしくたって、どんなに植物の色が変わったって、それはただの光景であって人格ではない。そこに心があるわけではないんです」
 微笑みの奥に、孤独があった。人魚は変わらず玲瓏のように美しい声を紡ぐ。碧の水面、浮かぶ百合。霧に包まれた鮮やかな、油彩絵具のような風景。表情だけはずっと微笑んでいるが、瞳は色抜けた氷のようで。
「とてもとても美しい場所。まるで私の理想の景色。けれど――――――ねぇ、あなたは、」

 ――――理想を叶えたあとにある、“これから”が何もない世界をしっていますか……?

「…………」
 ざざぁ、と耳障りな風が撫でていった。殺風景な風。無粋にも、幻想の泉から霧を払っていく。人魚は変わらず、朗らかに笑っていた。
「なので、来客は嬉しいわけです。いらっしゃいませ水死体さん」
 おじぎされる。いやなニックネームがあったもんだった。
「あ、でも本当に危なかったんですよ? あのままだときっと危険でした。だからもう、ここには来ない方がいいかも知れません。さみしいですけれど……」
 なんて、本当に寂しそうな顔をする井の中の蛙。その姿が微笑ましかった。
「なぁ、俺を襲ったあいつは何だったんだ?」
「ああ……あれは河童です。」
「河童」
「はい、河童です」
 人魚の次は河童か。本当にファンタジーな泉だ。錆びれシャッターと傾き電話ボックスの街こと縁条市にはまるで相応しくない。
「見ましたかあの恐ろしい眼光。つららのような牙に、かいぶつの爪。おっそろしいことです。本当に、おぞましい。きしゃー」
「人を襲うのか」
「ええ。通りがかった人を引きずり込んで溺れ死にさせようとするんです」
「そんなやべえのと、一緒に住んでんのか」
「はい。残念ながら、同じ池のムジナです。でも不思議なんですよねぇ」
「不思議?」
 不思議生物が何言ってやがる。しかし、人魚は心底疑問符を浮かべて小首を傾げていた。
「|会ったことがない《・・・・・・・・》んですよ。おかしいんです。こんな狭い泉なのに、姿が見えない。もしかすると、幽霊か何かなのかも」
「幽霊ねぇ……」
 そりゃまた、第一現象か第五現象か判断に困る事例だ。
 しかし間違いない。その河童とやらがこの泉に隠れ潜み、訪れた人間を水底に引きずり込んでいたのだろう。証言とも一致。実体験もした。調査は十分だ。
「あー……」
 しかしながら水中戦は厄介だ。人類には難しい。しかも河童相手ともなれば、相当に厳しいだろう。この人魚なみに器用に泳ぐに違いない。
「…………どうしたんです?」
「あ」
 考え込んでいると、きょとんと見られていた。
「なんでもない。命を救ってくれてありがとうな。助かったよ、ナギ」
 感謝を述べると、青い美しい瞳が眩しそうに細められた。今生の別れなのだろう。
「はい。もうここへは来ちゃだめですよ、羽村くん」
 少女漫画のように美しい人魚。きっとどんな名画も、この実物の無垢な透明感には敵わないだろう。
「あ」
 遠くから、アユミの呼ぶ声がする。
「さようなら、さようなら。」
 ぷかぷかと、陽気に去っていく。どこまでも明るいやつ。でも最後の最後の一瞬に、とても淋しそうな顔をしていた。そりゃ孤独なんだろう。永遠にこんな泉でひとりきりなんて。
 霧が晴れ、アユミが現れる。ファンタジーを忘れさせるような赤髪と、柔和な微笑みに、自分が現実に帰ってきたことを実感する。
「やれやれ」
 青い瞳の、無垢な人魚は語った。この泉に危険な河童が潜んでいて、人間を襲うと。泉の中へ引きずり込んでしまう、と。でも会ったことはない。どちらもこの狭い泉に住んでいるにも関わらず。
「見えない河童、ねぇ……」

 その河童が自分自身だ、ということはきっと理解していないのだろう。



 目撃証言がある。殺人|未遂《・・》なんだから当然だ。
「人魚に足を引っ張られて、溺死させられそうになったんだってさ」
 オレンジの資料ファイルを読み上げるアユミ。場所はさびれた早坂神社。一人も客のいない境内の隅、鳥居の足元で俺たちは、泉で得た情報と事件概要の照らし合わせをしていた。真昼の陽光が眩しい。
「河童だ、って言うやつもいたんだよな」
「そうだね。でも、水中で溺れさせられながら見たんじゃ河童も人魚も大差ないかもね」
 確かに、その通りだ。俺もあの恐ろしい姿を見た。俺を水の底に引きずり込もうとしていた人魚――ナギの、深海みたいな暗い双眸。底なしの青色が俺を吸い込もうと足首を掴んでいたのだ。
 そして、それが消えたと思ったら、別人のように俺を助けに来た。まるですべてを忘れているようだった。ワケが分からない。
「溺死|させられそうになる《・・・・・・・・・》っていうへんな事件。いまのところ死者は出てないけど――」
「でも、危険なのは間違いないだろ。たまたま助かっただけだ、そんなのは」
 無垢な笑みを浮かべて楽しそうに話す人魚の姿。なぜだ? なぜあのお喋りが、人を引きずり込もうなんて考える? どうして河童の仕業だ、なんて嘘をつく。自分で溺れさせておいて自分で助けるなんて、意味が分からないにもほどがある。
「……それで、あいつの正体の情報はあるのか?」
 アユミがファイルをめくる。泉の人魚事件。今回の情報収集はうちの情報担当の中でも優秀な雨宮銀一がやったので、その辺りは抜かりない。
「――名前は海堂、凪さん。六年前の十七歳の時点で事故死。たまたま遊びに行ってたあの泉で死んじゃったんだね」
「へぇ……じゃ、やっぱりそういうことか」
「うん、そういうことだね」
 人魚といえば、五大異常現象でいえば間違いなく第五現象に該当するが――今回も、やはり見せかけだけの紛い物だったのだろう。
「――『亡霊』。彼女は、死者・海堂凪さんが残した、呪いによる幻想。第五現象でもなんでもない、ただの人魚型の幽霊なんだよ」
 ため息が出る。やはりまた第五現象お決まりのオチだった。今回の人魚の正体は第一現象『残留衝動体』、俗にいう亡霊ってやつだったわけだ。第五現象は歴史上発見例が一度もないが、少し変わった亡霊なんてのはどこにでもいる。呪いは自由自在に願望を具現化させるので、人魚の真似事になったところで何の不思議もないのだ。
「海堂さんの死因自体に不審な点はないんだけど、問題は生前だと思う」
 生きていた頃のナギ。生前にも、何かあったのか。
「この顔写真でも分かるだろうけど、とっても綺麗な女の子なの。でもそれはそれで苦労もあったんだろうね、生前のトラブルが書かれてる」 
「む……」
 人間関係。トラブル。ストーカー。傷害事件。淡々と羅列されているが、ひとつひとつが重要なわけではない。
「なるほど――数が多い。多すぎだな。こりゃ、人と関わるのが嫌になりそうだ」
 美人は苦労が多いというが、ずらずらと並べられたトラブルの数は同情に値する。おそらくあの屈託のない性格も影響したのだろう。
「そうだね。たくさん傷ついた結果、自分だけの理想の泉を創造して引きこもりたくなるのも無理ないのかも」
 つまりは人間が嫌いになってしまったのだろう。自分だけの楽園がほしいなんてのは、人間なら誰でも一度は考えることだ。
「その感情が、トラブルのたびに積み重なっていって、いよいよ呪いを遺すほどになっちまったってわけだな」
「トラブル続きのあとに事故死した、っていうのもよくなかったんだと思う。だから最後の最後の一瞬に、悔いが残っちゃったんだ」
 死因は――転落死。あの泉のそばで、海堂凪は高い崖から足をすべらせて無意味に死んでしまったようだ。目に浮かぶ。一方的に害を突きつけてくる人々から開放されたくて、あるいは逃げ出したくてあの山に一人で出掛けたのだろう。
 死にたかったわけではない。
 ただ、開放されたかった。重くのしかかって来る一方的な感情の渦から逃れたかった。あの山や泉を見て、少しは心が癒やされたんだろうか?
 しかし、ナギを手放さない、とばかりに不運はその足を掴んだ。崖から足を滑らせる、という最悪の形で。
 落ち行く最期の一瞬に、虚空を眺めながらナギはついに呪いを破裂させたのだ。永遠に朽ちることのない泉と、そこで何者にも縛られず自由に泳ぎ回る人魚、という空想を描いた。その呪いは死亡後もその場に遺り続け、やがて幻想の泉を構築してしまった。
「……なるほど。大体は想像がついたな」
「そうだね。でも、どうして人を引きずり込むのかな?」
「そこだよなー」
 解放を望んで楽園を築き、自らも何にも縛られない人魚と化したナギ。美しい理想郷だろう。ならばただそこに存在し続けていればいい。それこそが、呪うほどに願った空想なのだから。
 それが何故、他者を引きずり込むなんてことになる? なぜ河童の仕業なんて見え見えの嘘をつく?

 ――――理想を叶えたあとにある、“これから”が何もない世界をしっていますか……?

「……もしかすると、本気で自覚がないのかも」
「なに?」
 別人のように冷静な目をしたアユミが、とつとつと分析を口にする。
「かわいらしく微笑む人魚と、禍々しく人を殺そうとする人魚。互いに相手を自分だと理解できてない。無意識下で記憶を切り離して、共存してる――って可能性はどう?」
 言われてみれば、確かに無邪気に話すナギは嘘を言っているという感じではなかった。本気で河童のせいだと思いこんでいたのだ。
「……あり得るな。でも確かめようがないぜ。本人に聞いても、自覚がないのか嘘をついてるのか判別できない。シュレディンガーの猫だ。実は、本当にあの泉にはナギとは別にカッパが住んでるのかも知れない」
 この目で見ておきながら、無邪気なナギの姿を知ってしまった俺はつまらない仮説を口にする。アユミはそんな俺に笑った。
「そうだね。人魚が二人いるって可能性もあるかも」
 人魚とカッパ。
 溺死させようとする怪物と、救おうとするナギ。
 水の中というブラックボックスに隠された真実。
 ――そして、勝てるはずもない水中戦。
「……厄介だな。水の中ってのは本当に厄介だ」
「泳げるだけじゃ、だめだね。本気で襲われたらわたしの怪力だって意味をなさないかも」
 正面から戦っても勝てない。真実はまるで見えない。ならば、答えはひとつしかなかった。

「|池の水ぜんぶ抜く《・・・・・・・・》しかないね」
「ああ、|池の水ぜんぶ抜く《・・・・・・・・》しかない」

 アユミと頷きあう。
 さあ、真実を明らかにしよう。



 再び訪れた山の奥。空は曇天、重々しい空気でいまにも雨が降り出しそうだった。
「…………」
 それが、ある地点で一歩を踏み超えた途端に晴天になる。おかしな話だ。突然雲が消滅し、神々しい陽光が差し込んでくる絵画の完成。木々は生い茂り、季節を無視して色とりどりの花を咲かせ実を咲かせる。
 美しい楽園の始まり。ここから進めば進むほどに、泉に近づくほど幻想的になっていくのだ。
「じゃ、よろしくなアユミ」
「分かってる。でも……」
 アユミが、俺の身を案じて迷いを見せる。確かに、無茶な作戦ではあるだろう。だが問題ない。
「大丈夫だ。何とかなるさ」
「……わかった。それじゃ」
 たん、とアユミが飛ぶように駆けていく。俺はまっすぐ泉へ向かう。足を進めると、あたり一帯が霧に覆われ始めた。風景がより幻想的になっていく。
「…………」
 静けさの森。鳥の歌が聞こえるが、作り物のように美しい。気分を高揚させるために作られた鳴き声など、俺という侵入者にとっては殺風景な無音に等しい。
 野兎やリスが駆け、豊満な森の緑を飾り立てる。色の濃いチューリップ。群れを為して舞い上がる鳩。日本の片隅とは思えない理想郷っぷり。
「――――」
 ひゅんひゅんと甲高い音を立てて、俺は先端に重りがついた透明繊維の糸を回してみる。この強化ナイロン繊維の糸は俺の第二武装だ。師匠の真似ごとともいう。腰の後ろの第一武装、短刀『落葉』を抜いて刃紋を確認するが、無骨な宝剣は相変わらず濁りひとつない。俺の腐った夜色の目が見えるほどに良好、確認終了。
 童話の森を進みながら、思案する。今日もあの陽気な人魚は、俺を歓迎してくれるのだろうか? しかし忘れてはならない。既に、俺だけでなく、この森を訪れた何人かがあの泉で溺死させられそうになり、命の危機に晒されたという事実を。

 ――|会ったことがない《・・・・・・・・》んですよ。おかしいんです。こんな狭い泉なのに、姿が見えない。

 不思議そうに首を傾げる姿が浮かぶ。到底嘘を言っている風には見えなかった。

 ――もうここへは来ちゃだめですよ、羽村くん

 そんな警告めいた言葉を思い出す頃。ようやく、件の泉にたどり着いたのだった。
「さて」
 碧の水面に百合の花が浮かぶ。美しいヨーロッパの観光地のような滝から、水が注いで小さな虹を形成し、大きな泉に流れ込んでいた。昨日と同じく、またしてもパラパラと小石が落ちて水面を跳ねさせているのに気付いた。
「………………」
 アユミは持ち場についた頃だろう。泉まであと十メートルはある。しばし準備運動でもするか、と伸びをした瞬間。
「!?」
 俺は既に、水中にいた。
「が……っ」
 息ができない。掴むものが何もない。あり得ない、まだ水辺に立っていたわけでもないっていうのに、どうして俺は既に右足首を掴まれて水の底へと引きずり込まれそうになっている?
(――くそが……!)
 暴れれば暴れるほど、大量の気泡が視界を悪くする。それでも足を掴む手は微塵も外れない。その手を蹴りつけて、ようやく気付く。
 ――すり抜けた。手はそこで足首を掴んでいるのに、こちらからは触れることさえできない。蹴ろうが暴れようが無駄に決まっている。油断も甚だしい、ここは呪いによって形成された都合のいい結果を捻じ曲げて引き寄せる幻想空間の渦中だ。俺を引きずり込んでいるのは、足首の手ではなくこの空間そのもの。水辺に立っているかとか、強く振りほどくなんて物理世界の考え自体がまるで通用しやがらない!
「………ぐ、ぼ……」
 パニックでまたたく間に酸素が消費されていく。そうこうしている間にも水深は深くなって、どこまでもどこまでも引きずり込まれていく。
 ――そして、俺は見た。見てしまった。俺を水の底へと引きずり込もうとしている醜悪な怪物の双眸を。
『――――ミ、シイ……』
 その者は、美しく。
『――――サミ、シイ……』
 けれど見開かれた目は絶望的に深く。取り憑かれたように一心に俺を、その向こう側の虚無を見ている。
『――――ココニ、イテ。コノ泉デ、一緒、二――』
 その背後にある、底なしの深海と同じくらいに暗い。決してこちらの足を掴んで離さない。
 “呪い”が滲み出す。水槽の黒インクのように、人魚から染み出した怨念はまたたく間に澄み切った水を暗く濁らせていく。
 ふわふわと髪が揺れる。真白い顔で俺を引きずり込もうとする泉の怨霊――――別人のように蒼白な人魚、ナギがそこにいた。
 呪いに形成された亡霊は、壊れた蓄音機ように繰り返し感情を口にする。
『ヒトリ、リソウ、ウレシイ、サミシイ、ダレモイナイ、サミシイ、ジユウ、ラクエン、コドク、リソウキョウ、タノシイ、タノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイタノシイ』
 その目が、暗い深海で青く不気味に輝いている。青い海。黒い呪い。水面は遠く、決して手など届かない。
『タノシイカラ、アナタモ、ワタシ、ト、一緒ニ――――!』
 どうして水中なのに声が聞こえるのか。耳元で囁きかけるように、愛おしそうに、狂おしそうにナギが口にする。

『――――永遠ニ、泳ギ続ケマショウ……?』

 これが、理想の泉の真の姿だ。
 ああ、意識が遠くなってきた。
 このままでは殺されてしまう。
 人間は水の中では何もできない。
 蒼白になった人魚はまるで俺を離そうとしない。
 それじゃあ、|池の水ぜんぶ抜く《・・・・・・・・》しかないよなぁ――!

「!!!?」

 雷鳴のような衝撃が全身を叩きのめし、すべてを弾けさせる。ガラス板が大破するような音を立てて空間が砕け散る。視界は変わり、俺も人魚も空中にいた。
 火山が噴火したように泉が爆裂し、巨大な水柱が形成されていた。逆さまの視界の中で、魚も百合の花も水しぶきも、水中にあったすべてがいま、重力を失い空中に晒されていた。
「ナ、ニガ――!?」
 何が起きた、と突然空中に放り出された人魚は困惑する。決まっている。崖の上で待機していたどこぞの怪力少女が、崖上数十メートルほどで落ちそうになっていた大岩を持ち上げ、十トントラックでも軽々と持ち上げるその膂力を全開で上乗せして、空中から隕石のように泉の真ん中へと叩き落として水を跳ねさせたのだ――!
 五メートル近くあった巨石の質量も相まって凄まじい威力を発揮したそれは、モーセの十戒のごとく泉の水を叩き割り、底へと突き刺さって大地まで割り砕きかねない勢いで激震させた。舞い散る水しぶきの只中で、真実が明るみに引きずり出される。
 やはり、河童などいなかった。いるのは驚愕を浮かべる人魚がただひとりだけ。
「――そこだ」
「!?」
 俺の投げはなった糸がナギの首を絡め取り、逃さないよう強引に引き寄せる。抵抗は許さない。水がなければ、溺死などするはずもない。そも、人間が水中では何もできないのと同じように、陸上に引きずり出された人魚が人間に勝てるはずもない――!
 空中でナギの首を掴み取る。そのまま、迫る岩の地面へと背中から叩きつけた!
「――――っ!」
 泉のほとり、岩の上に人魚を押し付けて沈黙する。一拍遅れて、隆起した大量の水が大地に叩きつけられ、洪水のように暴れ回った。
 俺たちの足元にも、波のように薄く水が流れた。
「…………勝負あったな、」
 腰の後ろから短刀を抜き放ち、その白い細い首に押し付ける。がらんどうの青い瞳が、意思を失ったように青空の雲を映し出していた。
「………………ナギ。」
 眼の前にいるのは、やはり、否定しようもなく――あの時俺を救ってくれたはずの無邪気な人魚――ナギだった。
「やっぱり、河童の正体はお前だったんだな」
 表情に意思がない。あの日の柔和な笑顔はまるでなく、俺を殺そうとしたナギは怪物そのものだった。
「どうしてだ。なんでこんな真似をする。俺を救ってくれたじゃないか。人が来てくれて嬉しいって言ってただろうが。なんで――!」
 バチリ、とその輪郭が霞んだと思ったら、青い瞳に意思の光が戻ってくる。そして揺らいだあとに俺をみつけ、
「…………あれ? 羽村くん? だめですよ。もうここへは来ちゃ駄目って言ったのに」
 意識を取り戻したように、壊れた理想郷の人魚は笑顔を浮かべた。そのあまりの自然さに俺は震えた。
「そうか……………やっぱり、お前は」
「――デモ、サミシイ。ドコヘモイカナイデ。誰デモ良いカラソバニイテ」
 その目がまた意思の光を見失う。爬虫類のような無表情で怨嗟を零す。
「永遠。永遠に続くんです。エイエンにヒトリナンデス。ワタシ、ワタシ、ワタシは」
 永遠に朽ちることも老いることもない理想郷。誰にも脅かされることのない自分だけの楽園はしかし、孤独だった。
 ナギ――海堂凪という少女は、本当は人と話すのが好きだったのだろう。だが、様々な出来事の果てに、人間が嫌いになった。嫌いになった、と思い込んでいたのだ。その果てに、呪いを破裂させて理想の楽園を築いたが、だが、人間は。

 ――――人間の、心は。
 永久に続く孤独な楽園に耐えられるほど、強くはないのだ。

「ダカラ、引き止メ、ナクチャ」
 苦しそうに、壊れた呪いの残照は願望を告げる。相手を水の底へ引きずり込んででも、悪霊は孤独から逃れたかった。
「だめよ河童さん、そんなことしてはいけない」
 無邪気な人魚は、それを否定する。人を傷つけることなど許されるはずがない、と口にする。それが自分自身の嘆きであっても、理想郷に生き続けるという機能《のろい》は殺人を許諾しない。それが自分自身の一部である、という事実さえも許諾しない。
「けど、ケド――けれど、淋しくて、デモ…………ぁあ、あああああああアアアアアアア」
 バチバチバチと激しく輪郭が揺れる。
 壊れていた。
 とっくの昔に、破綻していたのだ。またナギの全身から黒色が滲み出し、大気を黒く濁らせようとする。霧が濃くなってきた。また底なしの泉を形成して俺を引きずり込もうとしている。今度は助からないだろう。いまここで、いますぐに、決断を下さねばならない。
「………………っ」
 ナギはまだ、良心を残している。しかしその結末は明白だ。呪いはいずれ必ず暴走し、無差別に害を振りまくバケモノと化す。既にナギは、半分以上がバケモノに侵食されている。この楽園は、長くは続かないだろう。
「また溺れてる……たすけないと――助けナイ、と…………」
 悪夢に苛まれながら、純真な人魚が泣くように声を絞り出す。
 良心の呵責に結論が出ない。
 そんなのはよくあることだろう。
 百パーセントの確信を持って罪を犯す者の方が少ない。
 悪道に引きずり込まれ、あれよあれよという内に気が付けば罪に手を染めている。
 立つ瀬が変えられてしまっていることがある。
 故に、

「アンタは有害な異常現象だ」

 ナギは必ず間違いなく、煩悶の果てに呪いに負けていずれ人を殺す。
 既に何人も何人も殺しかけている。
「――――」
 ならば狩人の答えは決まった。短刀を振り上げ、陽光を反射させる。
「そう……です、か…………」
 俺の言葉に、無邪気なナギまでもが表情を喪失する。まるで何かに気付いたように。
「…………そうでしたか……」
 そして、かなしそうに微笑んだ。俺が振り上げた短刀の切っ先をぼんやりと見つめ、歯を食いしばる俺を見て、無垢に微笑んだ。
「それでかまいませんよ」
 窒息しそうになる。楽園の人魚は俺の決断を肯定した。
「それでかまいません」
 短刀を握る手が震えた。
 迷うな。
 狩人とは、
 異常現象狩りとはつまり、
「――ぁぁぁあああああああああああッ!」
 残酷で無慈悲な『殺し屋』なんだから。

 ――――斬、

「あ…………」
 あたたかい血が跳ねて、俺の頬に付着する。永久の楽土に囚われた人魚は、きっと最後まで無垢な笑みを浮かべていたんだろう。無慈悲に短刀を振り落とした俺には、それを直視することはできなかった。
「りが、とう」
 自らの醜悪な狂気から開放されたように、的はずれな感謝を述べ、呪いが崩壊した亡霊は幾億の黒光りとなって霧散した。ナギの全身が黒紫の粒子となり、空へ吸い込まれていく。幻想の森も、端から崩壊していく。
 がちん、と心臓を捉えていた短刀の切っ先が岩に突き立つ。
「…………ナギ」
 その良心の欠片も、愛らしいお喋りの記憶も。永遠に終わらないはずだった楽園の残照も。ざらざらと手のひらから零れ落ちていく。
 やはり、人魚は泡になって消えたのだ。
「――――羽村くん」
「ああ、終わったよ」
 たん、と背後にアユミが着地する。俺の声は乾ききっていた。岩に出来た傷を見下ろしていた。
「救う手段はなかった。こうする以外にどうしようもなかったんだ」
「分かってる」
「こうしないと、ナギはいずれ人を殺してしまっていた。そしてあいつはもっと絶望する。……それだけは止めたかった」
「分かってる。大丈夫だよ」
「…………」
 言い訳じみた言葉を並べ立てると、アユミが俺の肩に手を置いた。
 ……誰かを殺すのは初めてじゃない。何も、悪者ばかりが呪いを抱くわけではないのだ。善良な人間が絶望の果てに怪物に成り果ててしまうことの方が多く、その数だけ俺たち狩人は陰惨な結末を見ることになる。
 事件の最後はいつもこうだ。――それでも、まだ、慣れない。
「ナギは淋しかっただけなんだ。ただそれだけだったんだ。決して悪いやつじゃなかった」
 殺した奴が虚しく口にしてみたところで、何が変わるわけでもないのだが。
「ああ……」
 狐の嫁入りが始まった。明るいのに小雨が降ってくる空を、人魚を殺した短刀を握ったまま、白痴のように見上げていた。
 幻想の空が、溶けていく。無垢な人魚の楽園が消えていく。油彩絵画のような上塗りの風景は蒸発し、元のつまらない山中の泉へと姿を変えていく。野兎は虫に。水面の百合の花は草の葉に。木々は、蜘蛛の巣が張ったような枯れた色に。
「呪い……か」
 消えゆく黒色の粒子を撫でてみた。不可思議で、理屈の分からない負の幻想。ただひとつ確かなのは、誰もが呪いを発現し得るということだ。
 どんなに善良な人間も、悪人も。
 俺もアユミも。
 負の感情に負け、何かを強く強く恨み続ければ誰もが呪いを具現化させ得る。
 そして最期は人魚のように泡になるのだ。
「……行く、か」
「うん」
 ふらりと立ち上がる。いつまでもここで呆けていてもしょうがない。小さくなった静かな泉に背を向け、俺たちは山を下り始めた。
 ――明るい人魚のいなくなった泉は、ひどく侘びしかった。
「……なぁアユミ、知ってるか。すぐ近くの街に大怪獣ギャドラが出たんだとさ」
「怪獣?」
「街を襲って人を殺しまくったらしい。また陰惨な事件だ」
「……怖いね。今度こそ本物の第五現象かな?」
 きっと違う。誰かが、そんな呪いを抱いたのだろう。そうしてまた俺たち狩人が駆り出されることになる。

 ――狩人? イノシシでも撃つんですか? ばぁん!

 いいや、狩るのは呪いと人間だ。
 誰かが願った。
 誰かが呪った。
 現代に生きる人間が無慈悲な現実の重量に押しつぶされ、大切なものを奪われて絶望する。そうして負の感情を心の内に蓄積し、最後は呪いを破裂させて怪物になる。

 これは、そんな悲しみに満ちた呪いを狩る“狩人”たちの物語だ。





         斬
  

by 飛鳥

「斬」シリーズです。
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