贈り物
その1
弥彦が万年筆に憧れていることを維弦はかねてより知っていた。買い物に出かけたマーケットで、弥彦が文具店のガラスケースを覗き込んでいるのを見かけたことがあるのだ。弥彦が立ち去った後、自分の用を済ませるために維弦はその店に入った。そこでガラスケースの中に万年筆があるのを見つけたのでる。瑠璃色の、夜と朝が交じる頃の空色をしているそれは弥彦の白い手に似合う気がした。
《青都》では、進学の可否も通う学校も、委員会によって成績ごとに振り分けられる。維弦が新学期から通うことになったのは《青都》で最も上級の学校だ。先だって委員会から届いた仰々しい封筒を、両親はことのほか喜んだ。出身校によって将来つける職業も暮らしぶりも変わるこの都市では、少しでもよい生活をするために、一つでも上級の学校を目指している。
「進学のお祝い、何にしましょうか」
維弦と弥彦の前で母は、読み返していた進学通知書から顔を上げて訊ねた。
「欲しいものがあれば何でもおっしゃいなさい」
維弦は母親の言葉に、顎に手を当ててしばらく考えた。欲しいものは特に思いつかない。そもそも物資が不足しがちなこの都市では、あれこれ欲しがるほど何かを見聞きする機会に乏しいのだ。
「兄さんばっかり狡い。僕にも何か買ってよ」
「いいか、兄さんにはお勉強を頑張るご褒美に好きな物を買ってやるんだ。お前は『B』評価ばかりだろう」
父が注意した。
「僕新しいマグカップが欲しい。飲み口が欠けちゃったんだもん」
「いい加減にしろ、弥彦。自分が大事に使わないからだろう」
再び父が諫める。弥彦はふくれっ面で子供部屋に駆け込んだ。バタンと音を立てて戸を閉める。
「ほら維弦、弥彦がうるさいから早く決めなさい」
弥彦が駄々をこねたのをきっかけにして、維弦はあの瑠璃色を思い出した。自分が万年筆を欲しがれば、弥彦が進学する時にもねだりやすいと思ったのである。
「それなら万年筆が欲しい」
普段は端末の入力機能や通信機能に頼るこの都市では、手書きの文字や文章が書けることは高度な教育を受けた者の証である。維弦も弥彦も学校で手書き文字を教わっているが、日常で書く機会はほとんどない。従兄弟の誕生日にメッセージを送る時くらいだ。
手書き用の文房具は高価だ。特に万年筆ともなれば、祝いの品だからと言っても子どもに買い与えるような値段ではない。維弦たちの父親の、二ヶ月分以上の稼ぎがたった一本にしかならないのだ。
せいぜい新しい靴か通学鞄をねだるだろうと予想していたらしい両親は青ざめた。しかし「何でも」と言った手前、駄目だとは言わない。この家では、維弦の我が儘はよほどのことがない限り通るのだ。
「お前ならばいつか《新天地》に行けるかもしれないからな。万年筆は買ってやるから精一杯励みなさい」
《新天地》は豊かさの象徴である。高額な移住権と引き換えに、快適で恵まれた暮らしが保証されると政府は宣伝する。
清潔な街並み、誰もが不自由なく暮らせるだけの賃金と物資、子供たちが楽しそうに遊ぶ公園。
《青都》の住民から見た《新天地》の映像は、この世の楽園に思えた。
その2
それまで勉強には熱心でなかった弥彦が、自分から机に向かうようになった。兄の進学が刺激になったのだと両親は言う。少しでもよい学校に入り将来に備えることは、《青都》の子ども達ならば当たり前のことである。
同じ部屋で過ごす維弦は、維弦の視線が万年筆に注がれていることにすぐに気がついた。
維弦が濃紺の万年筆を手に入れた二年後、弟の弥彦にも最上級の中等科への入学が決定した。維弦の時とは異なり、紙資源の不足から味気ない通知が端末へ配信されるばかりである。それでも兄に比べて劣ると言われ続けた弥彦の進学に、両親はことのほか喜んだ。
「これからはお前も兄さんを見習ってしっかりとお勉強なさいね」
端末の電源を落としながら言う母に、弥彦は期待を込めた視線を向けた。維弦はささやかなお祝いにと、今では貴重品となったココアを用意するためにキッチンへ立っている。小鍋に茶色いココアパウダーを入れて煎る。風味をよくするための一手間は、まだ経済状況がましだった頃に母から教わった。少しずつ水を入れてよく練る。ミルクはたっぷり入れたいところだが手に入りにくいので少しだけ。小遣いで買った上白糖はたくさん使う。
「あらいい香り」
カップに注食卓に運ぶと、母親が頬を緩めた。
「おいしそう」
弥彦が自分のカップに手を伸ばす。飲み口が少し欠けている。父親が一口飲んでうむとうなった。甘い物が苦手なのだ。
「僕、万ね」
「二人とも聞いてちょうだい」
弥彦が何か言いかけたのを、母親が改まった口調で遮った。
「この頃は何もかもが高価《たか》いでしょう。母さんもこれからは働きに出ようと思うの」
「苦労をかけてすまんが、二人とも協力をしてくれ。弥彦も中等科に上がるし、家のことは心配ないだろう」
「大丈夫だよ」
維弦が請け負う。
「弥彦も、今年は兄さんの大事な年だから、負担をかけないようにしっかりなさいね」
中等科の後期課程でどの学校に進学できるかは、今年の成績次第だ。
「はい」
不満ありげな顔で弥彦が頷く。
「さあ、そろそろ子供部屋の消灯時間ですよ。おやすみなさい」
母親が話を切り上げる。維弦はいたたまれない気分で弥彦にダイニングを出るように促した。
その3
それぞれに進学・進級してから二年が過ぎた。
維弦が台所仕事をすることを、母親は好まい。それよりも勉強をさせたいのである。維弦は弥彦に申し訳なく思いながらも、家の手伝いよりも机に向かうことを優先させた。家にいれば弟の無言の責めに晒され居心地が悪い。放課後はできる限り図書館で過ごす。
「あ」
手書き文章の練習課題をこなそうと練習用紙とペンケースを出した維弦は、入っているはずの万年筆がないことに気がついた。二年ですっかり手になじみ、金色のペン先は維弦の癖に合わせてわずかに削れている。今ではほかの筆記具を使う気になれないほど気に入っていた。
家に帰り、急いで子供部屋に入る。弥彦の机の上に、見慣れた桔梗紺のインクで書かれたメッセージカードを見つけた。維弦はとっさにそばにいた弥彦の頬を打った。
「いきなりなに」
「勝手に万年筆を使っただろう」
口ごもる弥彦に、維弦はインクの色を見れば分かると告げた。デリケートな万年筆のペン先が不用意な力で変形していないか、手書き文字の練習用紙に試し書きをしてみる。
幸い問題なく維弦は胸をなで下ろした。
気分が落ち着くと弥彦の頬を打った手が痛んだ。じんじんと痺れ、熱を持ったようにも感じる。
だが弥彦の方がもっと痛い思いをしているだろう。万年筆を弥彦が無断で使ったことに腹が立ったのだが、うっかり出したままにしておいた維弦にも非がある。なにも叩くことはなかった。
感情のままに手を上げたことを後悔しても遅かった。ベッドに入り、頭まですっぽりと布団をかぶった弥彦は、どうやら泣いているらしい。小さな嗚咽が聞こえる。
弥彦は不憫だ、と維弦は思った。
この学校に進学するためにどれほど努力したのかを維弦は知っている。それも将来の生活などという漠然としたもののためにではない。
たった一本の万年筆が欲しいだけで、二年の間好きではない勉強に取り組んだのだ。
だが両親は弥彦の望みを知ろうともしなかった。経済的に苦しいこの《青都》で、お金をかけて育てられ、学習のための環境を整えてもらえるのは一つの家庭で一人が限度だ。《新天地》への移住という代々の夢を「託された子」だけが家庭内で優遇される。しかし人口維持の目的から、政府から家庭に割り当てられる子供は平均すれば二人から三人。託されなかった子供はよい成績でも褒められず、それでも予備として勉強と我慢を強いられる。
維弦は机に向かい端末を起動させた。課題を済ませるつもりだったが気分が乗らない。通信機能を呼び出し、委員会が見て見ぬふりをする非公式な仕事紹介情報を閲覧した。
しかし中等科の学生にできる仕事など限られる。貴族街から闇市に違法に流される物資を運んだり、商品のパッケージを変え、内容量を少なく詰め替えて在庫の水増しをする作業をしたりと、委員会に目をつけられれば命はない危険な仕事ばかりだ。それでいて賃金が支払われる保証はない。
一覧画面を下まで眺めて画面を学習教材に切り替えようとした維弦の手が止まった。
貧困地域の、あまり成績がよくない子供たちに勉強を教える仕事があった。
斡旋しているのは慈善団体を名乗る民間組織だ。
「これなら」
この地域の住民に家庭教師の代金を支払う能力はないだろうから、子供の親はお金以外の何かを払わされていると想像がつく。
維弦はあえてその裏側を考えないようにして、慈善団体に連絡をした。
その4
一人で歩くのは危険と言われる貧困地域だが、維弦は幸いにも危ない目に遭わずにすんでいた。目立つ制服は避け、着古した普段着を身につける。できる限り大通りを歩くように心がければむやみに襲われることはない。
正規の家庭教師の料金よりはかなり安いものの、中等科の生徒の小遣い稼ぎとしては高額な仕事に維弦は満足していた。
少しでもよい学校に入ろうと、維弦が教える子供たちは目をギラギラさせて学んでいる。
初等科の一年生の授業内容ならば、親が教えてやれば成績はすぐに上がるのだ。しかしこの地域のように両親が忙しく子どもの面倒を見てやれなければ、他の子供たちに後れをとる。そうすると下級クラスに振り分けられ進学が危うくなる。進学不可の判定が出れば、義務教育である初等科を修了する一四歳で働きに出なければならない。しかしそれではまともな収入のある仕事に就けず、結果貧困の再生産が行われるのだ。
「今日は図書室に行かなかったの」
自宅の最寄り駅の公衆トイレで制服に着替え直してから帰宅した維弦は、夕食の支度をする弥彦の質問に窮した。用事があって学校の図書館に立ち寄ったため、たまには一緒に帰ろうと維弦を探したらしい。見つけられず、どこにいたのかと問われたのだ。
一瞬目が泳いだが、キッチンに向かう途中の弥彦にはそれを見られずにすんだ。
「見落としたんじゃないのか、お前はそそっかしいから」
「そうかな」
「それより、どうせ出来合いのものでももっとマシなものがあるだろう。茜屋の弁当でもなんでも」
テーブルの上のサンドイッチに文句を言うことで話題をそらす。弥彦はますますいぶかしんだようだ。しかし維弦の機嫌を損ねてまた殴られでもしたらたまらないと思ったのだろう、維弦への質問を繰り返すことはなかった。
好きではないパンを口に押し込むように食事を済ませると、維弦は急いで子供部屋に戻った。アルバイトで削った勉強時間を取り戻さなければならない。通電が止められ、強制的に停電になる時間まで課題に取り組まなければ授業に追いつけなくなる。それは絶対に避けなければいけないことであった。
その5
半期試験も近いというのに、弥彦は勉強に身が入らないらしい。進学してからは成績が振るわない様子だ。来週の半期試験後はほとんどの教科で補講を受けることになりそうだという。
端末の使用制限をかけられた弥彦は、週末はずっと子供部屋にこもり課題をさせられている。
維弦はそんな弟を尻目に、図書館に行くと言ってアルバイトに出かけた。もちろん本当のことは誰にも内緒である。維弦の生徒たちの、半期試験への意気込みは上位校の生徒たちの比ではない。よい学校への進学がかなうか否かでまともに収入を得ることができるかどうかが決まるのだ。少しくらい成績が下がろうとも食べ物にありつける維弦たちとは違うのだ。
午前中だけの仕事を終え、試験対策の特別手当をもらえた維弦は、久しぶりに檸檬堂へ寄り道をした。中等科や高等科の生徒たちに人気の店だ。曹達水やなどの飲み物や、缶詰を暖めるだけの軽食を楽しめる。
維弦は端末にウォレットカードをかざして残高を確認した。アルバイト代を受け取るために用意した非正規のものだが、このようなものは誰でも一枚は持っている。政府から一般市民に支給されているカードは監視されている。使用すると不正なアルバイトが露見してしまう。非正規な労働力が欲しい貴族が闇市で非正規なカードを安く販売しているのだ。
懐具合に少し余裕がある維弦は、挽肉とパイ生地を買ってミートパイを作ってもらった。少年たちのささやかな贅沢であるが、最近では注文するのもがいなくなったという。以前は三人ほどで割り勘をして食べる生徒もいたのだと、店主はさみしげに笑った。維弦はついでの買い物も済ませると、弟の待つ家に急いだ。
維弦が昼食時をやや過ぎて帰宅すると、弥彦は言いつけに従い子供部屋にいた。先にキッチンへ向かい、弟のマグカップを取り出す。何年も使い続け、縁が欠けているものだ。維弦のマグカップが欠ければ、母はすぐに取り替えるだろう。新しいものを食器棚の奥に置くと、古いものをわざと床に落とす。思惑通り割れた。満足そうに維弦は陶器の破片を片付ける。
子供部屋に入ると、弥彦は少しむくれながらも端末に向かって課題に取り組んでいた。
「雪が降る」
「本当」
勉強しているなんて珍しいなという揶揄いを込めて声をかけると、弥彦はうれしそうに窓に駆け寄った。
円蓋に覆われたこの都市で雪が降る日は決まっている。
「『古典読解』」
授業で習った古い言い回しだろうと指摘すると明らかにムッとした表情になる。
「お昼にしようか」
機嫌をとるために手にした檸檬堂の箱を掲げる。
「檸檬堂のミートパイ。お前食べたことないだろう」
ささやかな贅沢に弥彦の顔に喜色が浮かぶ。
「兄さんは」
「初めてだ」
じゃあ楽しみだと笑い合ってダイニングに向かった。
食器の用意を始めた弥彦が怪訝そうな声を上げた。
「僕のカップは」
「うっかり落としたんだ。何か代わりのはなかったかな」
「ないんじゃないかな、余計なものを買い置く余裕なんて、あれ」
食器棚をごそごそあさっていた弥彦が手を止めて振り向く。
「一つあった。まだ使っていないみたいだけど」
「とりあえずそれを使っておいたらいい」
釈然としない様子ながらも、弥彦は新しいカップを手にした。
その6
弥彦の補講が二つで済んだことに家族は安堵した。しかし維弦の成績が振るわなかったことに両親はショックを隠せなかった。維弦の『C』評価を知って動揺した母親が、休暇中は維弦の図書室通いを制限すると言い出した。図書室の資料が必要と訴える維弦に対して、父親が何冊かの参考書を買う資金を工面することで話がついた。しかし自由な外出ができなくなることは維弦にとって大きな痛手だった。
弥彦の目も気にせず、子供部屋で家庭教師を斡旋している団体に連絡を取る。受け持ちの生徒を減らす交渉のためだ。
今すぐ必要な本があるからと理由をつけて維弦は家を出た。慈善団体の職員に直接話をするためだ。貧困地区の近くにある薄汚い事務所で、維弦はでっぷりと太った顔役と向かい合う。
「君のことはまあ、評判がいいからねえ。こちらとしては顧客の希望を優先したいところなんだがね」
もったいぶった口調の相手にひるむことなく対峙する。
「ええ、そちらの言い分はごもっともです。しかしはじめは生徒三人のお約束だったはずです。今は同時に見ている子たちも含めて六人。これは契約から考えても多すぎますし、一度に複数を教えると、それぞれの生徒の学習効率も下がります。それでは生徒の成績を保証できません」
「だがなあ、金が欲しいと行ってきたのは君の方だろう。それも休暇中までの半年しか時間がないという。それならと思って稼がせてやっているこちらの善意も汲んでほしいものだね」
交渉ごとになれた顔役は簡単には折れない。維弦も引くわけにはいかないが、切り札はなかった。
「ですが生徒数が増えと頂けるのもの増え方が釣り合っていませんね。稼がせて頂けるのであれば、生徒六人分きっちりお支払い頂きたい」
三人分しか払われないのであれば生徒は三人しか見ないと強気の発言をする。
「幸いこちらの連絡先を生徒には教えておりませんし、僕が家庭教師に行かなければ苦情はそちらの団体に向かうでしょう。教師を派遣しないという噂はあっという間に流れ、新たな顧客がつかないどころか今の生徒ですら他の団体に移るかもしれない」
顔役はつまらぬ脅しと思ったようだが、万一の可能性はある。しばらく思案したが、四人の生徒を、それぞれ一対一で教えることに落ち着いた。
その7
弥彦にもっと勉強させなければ進級が危うい。自分は少し勉強時間を減らしても挽回できるように努力する。そう両親を言いくるめて、維弦は休暇中の食事の支度を引き受けた。それには当然ながら買い出しも含まれる。どうにか自由に外出できる時間を確保した維弦は、週に四日、それぞれ一時間の家庭教師を続けることにした。
「休暇中にはなんとかなりそうか」
弥彦が補講に出かけている間にウォレットカードの残高を確認した維弦は、小さく安堵のため息をついた。後は自分の成績を回復させなければならない。遅れていた教科を中心にこれまでのおさらいに力を入れる。
限られた時間に集中して取り組んだためか、たったの三週間のうちにこれまで習った範囲の課題は最高難度まですべて正解できるようになった。
「兄さん、ベドゥヌ地区にいたって。何してるの」
弥彦の問いに、維弦はしくじったというような顔をした。休暇は今日でおしまいだ。
「誰に聞いたんだ」
語気が強まる。
「クラスメイト」
「まあ、もうあそこでの用は済んだ。行くことはない」
弥彦が納得したような顔をしたのでほっとしたのもつかの間、誤魔化されたことに気がついて再度質問をしてくる。
「用事って」
しつこい問いかけに根負けした維弦は声を落として答えた。
「家庭教師。頼まれたんだよ」
「誰に」
「もういいだろ」
「どうしてさ。まだ中等科なのに家庭教師をするって。兄さんにつけるって話じゃなかったの」
弥彦は維弦のの袖を掴んで更に訊ねる。維弦がが話すまで手は放さない勢いだ。
「ちょっと小遣いが足りなかっただけだ。もう放せよ」
強引に振り払うと弥彦はよろめいた。
「そんなに欲しいものでもあるの」
兄さんなら頼めば両親に買ってもらえるだろうにと弥彦が言う。うらやましげな弥彦の声に、維弦は弟を不憫に思った。マグカップ一つさえ、両親はかってやりもしなかったし、台所仕事を弥彦に任せきりのせいで、新しくなったことにも気がつかない。
「だからもう済んだからいいんだよ。しつこいぞ」
隠し事をしている後ろめたさから乱暴な口調になった。それを不機嫌ととったらしい弥彦が拗ねて寝台に上がろうとする。会話を打ち切ってしまった後悔を飲み込んで、維弦は弥彦の背中に声をかけた。
「これを買いたかったんだよ」
維弦自身にも意外なほど穏やかな声。机の引き出しを開けて小さな箱を出す。意地になって振り返らない弥彦の頬に、それを押し当てられた。
「もうちょっと隠しておきたかったんだけどな。また喧嘩をするくらいならもういいさ」
見てみろと言うと弥彦は渋々箱を手に取る。
「開けちゃっていいの、兄さんのなんでしょ」
「いいから開けてみろ」
元通りに戻せるようにか、弥彦はできるだけ丁寧に包装紙を剥がす。濃紺の箱は維弦の持つ万年筆と同じ色だ。上蓋をそっと持ち上げる。
「時間が足りなくてな。インクはしばらく俺のを使っておけよ」
後は小遣いを節約すれば、学年末までにはインクも買える予定だったのだ。そうしてからセットで渡したかったが仕方がない。こんなことで弥彦と喧嘩をしてもつまらない。
「え」
「お前にやるって言ってるんだ。察しろよ」
それは夜と朝が交じる頃に見られる、美しい瑠璃色の万年筆だった。
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