白金記序章 - 黎明編
1
秘密結社ヘリオス。
力による世界の統一を目論むこの巨大組織では、とある極秘プロジェクトが進められていた。
〈人工全能計画〉――遺伝子改造によって従来の人間よりもはるかに優秀な新人類を創出し、ヘリオスによる世界支配を盤石にする強力な駒とする。そんな計画だった。
そして優秀な〈人工全能〉の中でも、最高傑作と呼ばれた者がいた。
|白金《しろがね》ヒヅル――人間離れした身体能力と知能を持つ彼女は、齢十五にしてヘリオスのエージェントとして抜擢され、強者揃いのエージェントたちの中でも頭ひとつ抜き出た才覚を発揮し、すべての任務を完璧に遂行、ヘリオスの世界統一計画の進行に大きく貢献していた。
ヒヅルは〈人工全能〉の中では最も初めに生み出された第一世代であった。が、人工全能の精製は極めて難しく、彼女以外の第一世代人工全能は肉体を維持できずに〈崩壊〉してしまい、この世に生を受けることすら許されなかった。
そう。ヒヅルは第一世代唯一の生き残りであると同時に、突然変異体であった。言ってしまえば、研究者たちのまぐれによって誕生した、奇跡の個体であったのだ。続いて第二、第三世代の〈人工全能〉が生み出されたが、ヒヅルを超える能力を持つ者は未だ存在しない。
唯一の第一世代人工全能として、常人の数百倍、あるいはそれ以上の速度で学習を進めるヒヅルは、すでに全世界の言語を操り、数々の世界記録を塗り替えるほどの身体能力を持ち、ヘリオス屈指の実力者である|高神麗那《たかがみれいな》に戦いを仕込まれた期待の新鋭として注目されていた。
第二次世界大戦後、アメリカと世界を二分した超大国ソビエト連邦。かつては世界初の有人宇宙飛行を成功させ、夢の科学先進国とまで呼ばれていたこの国は、中央政府による厳しい管理体制下で生じた深刻な経済政策の失敗で、一九八〇年代初頭にはアメリカや日本に比べ二十年遅れていると言われるほどに疲弊していく。西側では貧乏人ですら買えるカセットテープレコーダーが、東側ではソ連の高級官僚ですら手に入らなかったという冗談みたいな話があるが、実話である。しかしながら硬直的かつ秘密主義的な風土、厳しい階層組織構造が災いし、改革は難航。ダメ押しに一九八六年に発生したチェルノブイリ原発事故の対応を巡り、ソ連共産党内部の守旧派と改革派が真っ向から対立。後の新生ロシア初代大統領となるボリス・エリツィンが台頭してくる。
秘密結社ヘリオスにとって、ソ連崩壊は長年の夢であった。西側資本主義を世に広め、ブラックメロン家を頂点とする統一世界を作るには、共産主義の総本山ソ連はいかなる手を使ってでも排除したい最大仮想敵国だったのだ。
ヘリオスはエリツィンに接近し、〈ロシア国民戦線〉を設立させ、裏から多額の資金援助を行った。その後一九九一年一月にソ連がバルト三国に軍事介入し、多数の死者が出、国内の反政府感情はますます高まっていく。そんな中エリツィン一派は求心力を高めていくものの、ソ連共産党守旧派の層は依然厚く、あの手この手で改革派の鎮圧を試みていた。中でもゲンナジー・イオーノフという男は、西側諸国に融和的なゴルバチョフを失脚させ、ソ連共産党の次期最高指導者に成り代わろうとしていた大物中の大物である。ゴルバチョフが党内で求心力を失いつつある中、ヘリオスにとってもっとも潰したい人物であった。
だがある日、イオーノフが突然失踪する。
彼はヒヅルによって、この世から抹消されてしまったのだ。
この頃すでにヒヅルは社会主義各国での諜報活動も任されており、変装においてはもはや芸術とも呼べるレベルで、ごく短時間で完全な別人に顔を変え、ありとあらゆる国や機関に潜伏し、情報を収集しつつ、イオーノフ以外にも有力者を次々と排除していった。そんな彼女は姿なき謎の殺し屋として恐れられていた。実のところヒヅルの本当の顔を知っているのは、ヘリオスの中でも高神麗那や人工全能研究の関係者くらいのものである。
ヘリオスの〈制裁〉は、実に容赦がなかった。逆らう者は当事者のみならず、一族郎党皆殺し。それが原則であった。反逆の芽を完全に摘み取るには、暴力と恐怖による統治がもっとも効果的であり、手っ取り早い。そしてヘリオスという必要悪が唯一無二絶対の存在として世界の頂点に君臨し、秩序を作るのが理想とされている。結局のところ人間の歴史とは戦いの歴史であり、武器を捨て、平和を愛すると謳った民族は虐殺されてきた。それが現実である。
「あんな手も足も出せない幼子まで殺す意味が、果たしてあったのですか」
ヒヅルは重苦しい口調で、高神に訊ねた。泣き叫び許しを乞うイオーノフの家族、特にまだ幼かった孫娘たちの悲鳴が、ヒヅルの脳裏から離れなかったのだ。
「意味はあるわ。まずは見せしめ。ヘリオスに楯突く者は、本人はおろか一族郎党皆殺しにされる。一方で反乱分子の排除に協力した者には手厚い報奨を与える。そうすれば、将来の反乱の芽を、容易に摘むことができる」
ヒヅルの上司であり、教官でもある高神麗那は、酷薄な笑みを浮かべてそう言った。死を|厭《いと》わず戦える|兵《つわもの》はいても、一族郎党皆殺しにされるとわかっていて牙を突き立てられる者はなかなかいない。
ヒヅルの任務遂行は、完璧だった。迅速かつ痕跡を残さず敵を抹消するその完璧さから〈神隠し〉とまで呼ばれていた。が、一方で彼女はまだ経験が浅く、ヘリオスの敵を忠実に排除する殺戮マシーンになりきれていなかった。
「あまり深く考えてはだめよ。ヒヅル。割り切りなさい。たとえ個々にとって非人道的なことでも、ヘリオスによる世界統治が盤石なものとなれば、本来戦争で失われるはずだった多くの命を救うことができる。大局で物を見るようにしなさい。そうすればあなたは私よりもはるかに早く幹部に、そしてゆくゆくはグレートオリエント、世界を統治する器になれる」
結局高神に言いくるめられてしまったヒヅルは、くたびれた顔で食堂へ戻った。人工全能たちの食事の準備は当番制で、今夜はヒヅルが当番の日であった。
「疲れた顔をしてるわね。ヒヅル。今日は私たちがご飯を作るわ。ヒヅルはゆっくりベッドでくつろいでて」
「いや。私ひとりでやる。月世はヒヅルと一緒にくつろいでていいぞ。何もしなくていい。いや、何もするな」
台所で調理準備をしていたヒヅルを、同じくらいの背丈の男女が出迎えた。背丈だけでなく、髪型や顔立ちまでもがそっくりだったが、雰囲気は対照的だった。|陽《よう》と|月世《つくよ》。第二世代〈人工全能〉であり、ヒヅルにとっては弟と妹のような存在である。
いつもは面倒くさがりな月世が、今日はいやに張り切っていた。腕まくりをし、手に持ったフライパンをバドミントンの如くぶおんぶおんと振り回す。陽はそんな彼女から無表情ですばやく手を伸ばしフライパンを取りあげてしまった。
「ちょっと。何するのよ」月世が眉を寄せて抗議する。「私だって、その気になれば料理のひとつやふたつ。い、言っとくけど、こないだのはちょっと油断しただけだからね。私だって人工全能の端くれ。本気を出せばすぐに」
月世の料理音痴は周知の事実であり、以前にも料理当番を申し出たことがあったのだが、その|悉《ことごと》くが失敗どころか爆発し、テロと誤解されてヘリオスの鎮圧部隊が|駈《か》けつける騒ぎとなった。人工全能といえどまだ研究途上の段階であり、本当の意味で完璧な者はヒヅルくらいだった。
「いや。人には向き不向きというものがある。それは我々人工全能とて同じだ。いいから、私に任せなさい。ただでさえ|憔悴《しょうすい》しきっているヒヅルに追い打ちをかけるんじゃない」
「何だとテメエ。もういっぺん抜かしてみやがれ。スカしたツラアしやがって、むかつくんだよ」
いきなりチンピラヤクザのような口調になった月世が陽に飛び蹴りを食らわせようとしたが、突如背後から髪をひっつかまれ、派手に転倒した。
「お前らヒヅルをこれ以上疲れさせてどうすんだよ。今日は俺がやる。ヒヅルは寝てろ。いいな」
金色の行書体で「一撃」とプリントされた赤いタンクトップを着た筋肉もりもりのマッチョマン――第二世代人工全能の|旭《あさひ》が、ヒヅルの手からエプロンを強奪し、険しい表情でそう言った。
翌日。久々に休暇を与えられ、図書室で優雅に紅茶を飲みながら本を読んでいたヒヅルの元に、月世が慌ただしく駈けこみ、興奮気味に叫んだ。
「ヒヅル。朗報よ。私たちの新しい家族が誕生したわ」
「わお。本当ですか」
ヒヅルも興奮を抑えられなくなり、月世と一緒に鼻唄まじりにスキップしながら研究室へと向かった。
2
一九九一年七月十日。第四世代人工全能の〈精製〉実験が行われた。
第四世代人工全能の成功体は、たったひとり。
人工全能の精製は極めて難しく、唯一の第一世代ヒヅルが誕生してから今回の実験までの間に五百体もの精製が試行されたが、現存するのは二十四人のみ。後は精製中ないし精製後に肉体が崩壊して死んでしまったか、あるいは何らかの障害を持って生まれてきたため、〈処分〉されてしまったのだ。
生まれた小柄な男の子は、第一世代唯一の成功体であるヒヅルに|準《なぞら》え、〈ヒデル〉と名づけられた。
「あゝ。ヒデル。何と可愛らしい子でしょう。|星二《せいじ》、抱きしめてもよろしいですか」
鼻息の荒いヒヅルは、ヒデルの精製を担当した若手の研究員に、そう訊ねた。研究員の名は、|朱井星二《あかいせいじ》。坊ちゃん刈りに野暮ったい黒縁眼鏡、せいぜい中学生くらいにしか見えない童顔のこの男は、無邪気な笑顔で緊張気味に口を開いた。
「か、かまわないよ。唯一の第四世代だから、丁重にね」
「あゝゝゝ。可愛い。天使よ」ヒヅルは星二の言葉が聞こえていないのか、まだ生まれて間もないヒデルに夢中で頬ずりしていた。不快だったのか、ヒデルはぎゃあと喚きだした。
「だめよ。ヒヅル。乱暴にしたら」
星二の助手である|神崎明子《かんざきあきこ》、冴えない星二とはうってかわってアイドル・スターのように可愛らしくほとんどの男性研究員を虜にしてやまない研究所随一の美女が、ヒヅルからヒデルを取りあげた。慣れた仕草で子守唄を歌いながらあやすと、ヒデルは安らかに寝息を立て始めた。
「ごめんなさい。つい興奮を抑えられなくて」ヒヅルが深々と|頭《こうべ》を垂れ、陳謝した。
「かか、彼は逸材だよ。ヒヅル。こ、今後の教育次第では、き、ききき、君に劣らぬ逸材に、成長するかもしれない。将来が実に楽しみだ」興奮を隠しきれなくなったのか、星二が|吃《ども》り気味にそう言った。
「私たちの最初の子だから、大切に育てなきゃね」明子が誤解を招くような言い回しで言った。事実、ヒデルは星二と明子が始めて精製に成功した〈人工全能〉であった。
人工全能たちの一日は、朝の基礎体力訓練に始まり、格闘や射撃、兵器の扱い方などといった軍事教練、それから一般教養や世界各国の言語や文化、ヘリオスの素晴らしい理想や統一世界政府構想といった思想教育、その他ハッキングやら(過激な)運転講習やら、資格を要する専門職業知識、異性の口説き方に至るまで一日六、七時間徹底的に仕込まれる。それらが終わると、炊事や洗濯、清掃といった当番制の仕事。後は施設から出ないかぎりは自由に行動することが許されている。
「アルマのやつ、またへばったのか」旭が呆れ気味に言った。
朝の基礎体力訓練は並の人工全能にとって大した負荷ではなかったのだが、例外も存在した。第三世代人工全能のひとり、アルマ。彼女は生まれつき肉体が脆弱だったが、知能が高かったため〈処分〉を免れた個体であった。肉体的な強さは訓練で補えると当初研究者たちは考えていたようだったが、いつまで経っても訓練についていけるようにはなれず、基礎体力訓練では毎日のようにへばって教官の手を煩わせ、白眼視されていた。
「人にはそれぞれ向き不向きがあるものですよ。旭」
ヒヅルは訓練中にもかかわらず、アルマに駈け寄り、手をさしのべた。
アルマは半べそをかいていたものの、ヒヅルの手をとると、「えへへ」と苦笑いした。
「何をしているのかね。ヒヅル君。早くランニングを続けたまえ」
てっぺんあたりまで後退した生え際が印象的な格闘教官である|剣持憲一《けんもちけんいち》が、わざとなのか脂ぎった肌に太陽光を反射させ、ぴか、ぴか、と、ヒヅルに照射して命じた。
「アルマはもう限界です、教官。一度休ませるべきかと。これ以上の継続は非効率です。私が彼女の分も走ります。私はまだ余裕がありますので」
ヒヅルは落ちついた調子で、その神秘的な黄金の瞳で剣持の眼を見据え、毅然と主張した。口調こそ柔らかだったが、その視線からは一歩も退かぬ強固な意志とでも言うか、有無を言わさぬ圧力のようなものが、感じられた。ソ連共産党守旧派の大物ゲンナジー・イオーノフを暗殺し、ソ連を崩壊に導いた功労者として、ヒヅルは今やヘリオス期待の新星として上層部から注目されており、将来指導層の人間として剣持の頭上に君臨するのは確実であった。それを理解しているのか、小心者の剣持は今は教官と教え子であっても、ヒヅル相手には強く出られなかった。
「ふ、ふん。そこまで言うなら仕方ないな。いいだろう。ただし、君がアルマの分も走りなさい」
「お安い御用ですわ。ほゝゝゝ」
ヒヅルはアルマを軽々とお姫様だっこし、鍛錬場に隣接している休憩室まで運んでいった。
「ヒヅル。ごめん。私のせいで」まだ十歳を迎えたばかりの子供であったアルマは、心底申し訳なさそうに顔を下に向けていた。
「良いのですよ。アルマ。あなたが誰よりも一生懸命だったのはわかっています。あなたにはあなたにしかない武器がある。周りの声を気にする必要などありませんよ」
「私にしかない武器って、何」ヒヅルの言葉が意外だったのか、アルマは眼を丸くして訊ねた。
「それはいずれ明らかになることです。とにかく、今は身体を休めなさい」
ヒヅルはアルマの頭を軽く撫でると、微笑みながらものすごいスピードでランニングのノルマを易々とこなした。
ヘリオスには当時極秘であった人工全能研究を監督、指導する〈人工全能研究指導委員会〉というものが存在した。高神や剣持は教官として人工全能たちの教育や訓練を行う傍ら、この極秘研究が表に出ないよう、そして研究結果がヘリオスの利益として活かされるよう、監督する任務を与えられていた。
アルマに対する指導委員たちの意見は、ヒヅルとは異なっていた。いつまで経っても成長の見られないアルマを生かしておくのは経費の無駄であり、〈失敗作〉と認定して速やかに処分を。そんな声が出始めたのは、ヒデルが誕生してから四カ月ほどのことであった。
「アルマはどうしたのですか。教官」
ある日、軍事教練の最中にアルマの不在に気づいたヒヅルが、射撃訓練の教官である|高神麗那《たかがみれいな》に訊ねた。
高神は淡々と告げた。「知らなかったの。彼女は〈失敗作〉として処分されることになったわ。練習を続けなさい」
「待ってください」
ヒヅルは銃を置き、防音用イヤーマフを外して高神に迫った。
「処分とは何ですか。殺すのですか」
「成長の見込めない彼女の維持コストを払い続ける意思が、上にはなくなったということよ。あなたたち〈人工全能〉の維持管理には、多大なコストがかかっている。それもこれも、組織の将来を見据えた投資であることを忘れてはいけないわ。ヒヅル、あなたはとても優秀だから大丈夫よ。安心なさい。さあ、射撃を続けなさい」
まるで電話の音声案内の如き無感情な口ぶりで、高神は言った。彼女は人工全能のことなど作業用ロボット程度にしか考えていない。ヒヅルにはそう思えたのだ。
「話はまだ終わっていません」ヒヅルはあくまでも食い下がった。今度はやや強い口調だった。「アルマは、私の妹です。殺すとは何事ですか。断固抗議します」
だんだん鋭い口調で迫るヒヅルに、高神は|辟易《へきえき》した様子で、ため息をついた。
「旭。月世。ヒヅルを連れ出しなさい」
ヒヅルの倍はありそうな旭の豪腕が、ヒヅルの首を抱えこんだ。そして月世が小さな声で「ごめん」と呟き、しかし訓練用とはいえ実弾の込められた銃を頭に突きつけると、さしものヒヅルも沈黙するしかなかった。高神は小心者の剣持とは違い、若くして実力で現在の地位をもぎとった精鋭であり、いくらヒヅルが将来の大物であろうが一歩も退かなかった。
「私を失望させないで。ヒヅル。感情に流されるようでは半人前よ」
射撃訓練場から追い出されたヒヅルに、もはや高神の言葉は届いていなかった。
3
「アルマはどこですか。星二。もう殺されてしまったのですか。答えてください」
ヒヅルはもはや血相変えて星二の部屋に飛びこみ、訊ねていた。
「いや。まだだと思うが」いつもは冷静なヒヅルの見たこともない剣幕に押され、星二は仰け反りながら答えた。
「どこにいるのです。教えてください」
「し、知らない」星二は|頭《かぶり》を振った。
「では、なぜ眼をそらすのです。脈拍も跳ねあがりましたね」
並外れた観察眼を持つヒヅルは、嘘をついた人間特有の変化をひとつたりとも見逃すことはない。ヘリオスでは〈人間嘘発見器〉として捕虜の尋問に駆り出されることもあるほどだ。
ヒヅルに嘘は通じぬと悟った星二は、勘弁してくれと言わんばかりに両手をあげた。
「聞いてどうする気だ。まさか力ずくで連れ出そうってんじゃないだろうな。そんなことをしたら、いくら君でもただじゃすまないぞ。私もだ。教えるわけにはいかない」
ひと筋縄ではいかぬと悟ったヒヅルは、考えた。星二の意思は強固。ならば、いっそ少し暴行してでも。アルマの命がかかっているのだから。
ヒヅルは、星二に手を伸ばした。
そして。
「教えてください。星二。お願いします。私は妹を助けたいのです。あなたから教わったことは、たとえ殺されようと誰にも言いません。約束します。この通りです」
ヒヅルは星二の前に跪き、額を地につけて哀願した。
「頭を上げてくれ。ヒヅル。そんなことをされても、答えられない。誰が聞いているかもわからない」
「地下の管理室じゃないかしら」椅子に腰かけてのんびりコーヒーを飲んでいた明子が、あっさり白状した。「もうあまり時間はないかもね」
「お前」今度は星二が血相を変えて明子の両肩を掴み、激しくゆすった。
「ただの独り言よ。それに、もし所長や高神に聞かれていても、処分されるのは私だけ。あなたには何の迷惑もかからないわ」明子は星二の手をぺしとはねのけ、冷ややかな眼差しで言った。
「ありがとう、明子。本当にありがとう。妹の命の恩人よ」ヒヅルは興奮気味に明子の手を取り、深々と頭を下げた。「このご恩は忘れません」
「そうね。とんでもない大恩だわ。ワイヤーラーメン一年分くらいは奢ってもらわないと、割に合わない。だから、勝手に死んだら承知しないわよ。せいぜい気をつけなさい」
足を組み、椅子の上で偉そうにふんぞり返りながら、明子は言った。なお、ワイヤーラーメンとは博多系のラーメンで極稀に見られる特殊メニューで、〈針金〉以上の硬さと太さを誇る名物珍味であり、読んで字のごとくワイヤーを思わせるような麺類と思えぬその歯ごたえは、食せば食すほど味わいを増す神秘の味である。
「ああ。えらいこっちゃ。えらいこっちゃ」星二が頭を抱えていた。「もうなるようになれ」
星二は首から下げていた身分証兼カードキーを、乱暴に机の上に放り投げ、立ちあがった。
「あら。どういう心境の変化かしら」星二の真意を瞬時に悟ったのか、明子が面白おかしそうに言った。
「何のことだ。私は何も聞いてない。何も知らない。いいか。くれぐれも、余計なことは絶対するんじゃないぞ。ああ。くわばらくわばら」
そのまま星二はそそくさと扉まで早歩きし、退室した。
「カードキー、使っていいって」明子が悪戯っぽい笑みでヒヅルに星二の暗黙のメッセージを告げた。
「彼にも、ちゃんとお礼をしなくてはいけませんね。友よ」ヒヅルは心の底から嬉しそうに、満面の笑顔でそう言うと、部屋を後にした。
「君が後先考えないおてんばなのはわかっていたが、今回は相手が相手だぞ。アルマを見捨てろとはぼくも言わないが、今のヒヅルは何をするかわからない」
しばらくして戻ってきた星二が、呆れ気味に明子にそう言った。
「あなただって協力したじゃない。最後まで素直じゃなかったけれど」
「私がああしなかったら、ヒヅルはきっと他の研究員を襲ってでもカードキーを奪うだろう」
「でも、結局これで私たちは共犯者ね。ヒヅルに脅された、なんて言い訳が通用するとも思えないし。結局他に私たちにできることがあったのかしら」
「ぼくは」星二が言おうか言うまいか迷ったのか、数瞬押し黙った。「君の身に何かあったらと思うと、気が気ではない」
「あら。心配してくれてたのね。でも、もし今回処分されるのがヒデルだったら、たぶん私も同じことをしたと思うの」
「それは絶対にだめだ」星二は人が変わったように席をがたりと立ちあがり、叫んだ。
「それにね。あの子、ヒヅルならうまくやってくれるんじゃないかって、思ってるの」
「女の勘というやつかい」
「ふふ。そうね」
4
アルマが〈脱走〉したという情報は瞬く間に研究所中に広がり、機密保持のためにも見つけ次第殺せとの司令が、研究所員はおろかヒヅルたち人工全能にも下された。|匿《かくま》えば同罪となり、同じく〈処分〉の対象となる、とも。
せっかくアルマを助け出したはいいものの、彼女をどこで生活させるか、ヒヅルは困っていた。いかに常人離れした知能の持ち主とはいえ、研究所内にはいたるところに監視カメラが仕掛けられており、星二や明子といったごく一部の例外を除けば味方はいないに等しい。以前アルマの処分をめぐって高神と対立していたため、ヒヅルは真っ先に容疑をかけられたが、証拠は何ひとつ残していなかったため、難を逃れた。
アルマは研究所内のある場所にいるのだが、それは極秘情報のため読者諸兄にも教えるわけにはいかない。とにかく、アルマをずっとそのままにしておくわけにはいかず、誰にも見つからないように飯や水を与え続けなければならない。そこでヒヅルは調理当番が回ってきた際にアルマの分をこっそり保存しておき、皆の眼を盗んではアルマの元に持ちこんでいた。アルマは助けてもらった身であるためか文句ひとつ言わなかったが、ずっと一箇所に閉じこめられ続けてまともでいられるはずもない。まして彼女は完璧な人工全能ではない。高い知能を持つものの、肉体や精神は脆弱なのである。
星二や明子に助けを請うこともヒヅルは考えたが、彼らは彼らで研究員同士の相互監視の眼が厳しく、しかも部屋には定期的に高神やヘリオス関係者の検査が入る。もしアルマを彼らに預けて発見されたら、アルマだけでなく星二や明子も死ぬことになるかもしれない。それだけは避けなければならなかった。
ではアルマを外に逃がすか? でも研究所の外に助けを求められる人間はいない。ならば、いっそ自分とアルマのふたりで逃げ出すか。逃げ出したとして、今や全世界に支部を持つヘリオスからいつまで逃げ切れるか……。いくら明晰な頭脳を持っていても、ヒヅルは任務以外で外の世界に出たこともなければ、信頼できる友人や仲間を外部に持っているわけでもない。たったふたりで、しかもアルマを守りながら、未知の広大な世界を生きていける自信が、ヒヅルにはなかった。
「お前は潔白か。ヒヅル」
ある日午前中の射撃訓練の時間、唐突に高神がいつもの柔和な口調とは打って変わって、高圧的な口調で、ヒヅルにそう訊ねた。
「何の話です」
「決まっているだろう。アルマが自力で脱走したとは考えにくい。手助けしたやつがいるのは明白だ。先日お前は私に、アルマを殺すな、と、食ってかかったな。いやいや。私としては、あれはお前の一時的な気の迷いで、本気でヘリオスに楯突くほど愚かではないと信じている。だがまあ、一応お前本人に確認しておこうと思ってな」
言動とは裏腹に、高神の眼は限りなく黒に近い凶悪犯を尋問する刑事の如く鋭かった。
「当然でしょう。私がそんな無謀な人間に見えますか」
「アルマはお前の妹なんだろう? しかもお前は今や優秀なヘリオスの諜報員で、常に任務を成功させてきた。アルマを助け出す勝算もあっただろう」高神は唐突に低い声で尋問しはじめた。
「はて。何の話でしょうか」ヒヅルは微笑みながらしらを切った。
「朱井星二は、反逆容疑で拷問部屋にぶちこんだ」
高神のそのひと言で、ヒヅルの顔が強張った。
「以後、ヒデルの育成は助手の神崎明子にやらせることとなった。このままアルマを連れ出した犯人が出頭しなければ、朱井には犯人として反逆罪が適用され、アルマ同様〈処分〉されることになるだろうな」
「星二がいったい何をしたというのですか」
ヒヅルは突然激昂して語気を荒げ、高神の胸ぐらを掴み、|威嚇《いかく》した。
が、すぐさまヒヅルの首に、冷ややかな感触が伝わった。
「手を放せ。ヒヅル。命令だ」
従わなければ、今すぐにでも高神のナイフがヒヅルの頚動脈を切断する。そう判断したヒヅルは、やむなく高神を解放した。
「星二は私の友人です。なぜ彼が拷問部屋など入らなければならないのです。説明してください」
「お前がそこまで友達想いだとは知らなかったよ。やつはアルマがいなくなる直前に管理室へ入室していてな。理由を問い詰めたら、何者かにカードキーを盗まれたと。眼が泳いでいたがな。最終的に朱井の〈処分〉は私に一任されている。拷問して口を割らせるのも、反逆罪で銃殺刑にするのも私次第ということだ。さて、もう一度確認しよう。お前は潔白なんだな、ヒヅル」
自分の罪を認めれば、星二を解放してやる。
ヒヅルには、高神がそう言っているように思えた。
逆に言えば、罪を認めなければ星二の命の保証はない、とも。
ヒヅルは、追いつめられていた。
汗が頰を伝うのが、わかった。
「何を|躊躇《ためら》っている。本当のことを話すべきか、迷っているのか?」高神が急に優しい口調で訊ねた。そしてヒヅルの肩に手を置き、こう付け加えた。「お前は将来有望な人間だ。ヒヅル。もしお前が犯人だったとして、罪を認めて自己批判し、アルマをおとなしく私の前に連れてくれば、今回だけは許してやろう。問題は解決され、星二も釈放される。世は事もなし。くれぐれも、アルマを連れてここから逃げ出そう、などとは考えないことだ。もう一度だけ言う」
高神の言葉は、ヒヅルにとってもはや呪いだった。
「朱井の〈処分〉は、私に一任されている」
彼女の言葉は脅しなんかではない。以前研究成果の利用を巡ってヘリオス相手に金をせびろうとした研究員の男がいて、その場で高神に銃殺されてしまった。元より世間から隔離された極秘の研究施設。ここではヘリオスこそが法律であり、高神はその執行人なのだ。
「わかりました。ならば、私が真犯人を見つけ出して、あなたの前に連れてきます。それで良いですか」
ヒヅルの苦し紛れともいえる切り返しに、高神は意外そうに眼を見開き、笑った。
「ははは。そうか。真犯人を見つけてくれるか。頼もしいな。それでこそ最高の〈人工全能〉。で、いつまでに見つけてくれるんだ」
「一週間」
「そうか。三日で見つけてきてくれるか」ヒヅルの言葉を遮り、高神が大きな声で言った。「ついでにアルマのやつも見つけてきてくれ。同じく三日以内にな。期待しているぞ、我が優秀な教え子よ」
「私に、妹を差し出せと」
「できないのか? ならば、お前もアルマを匿った反逆者と見做す。そんなやつに真犯人の捜査を任せるわけにはいかんな。星二の釈放もなしだ」
「あなたという人は」
「当たり前だろう。〈敵〉に対して譲歩するやつがあるか、ばかたれ。私に頼みごとをするなら、まずはお前自身が〈我々〉の敵でないことを示せ」
もはやヒヅルに選択肢は残されていなかった。
いくらアルマを生かすためとはいえ、自分のせいで巻きこんでしまった星二を見殺しにしていい道理などあるはずがない。アルマと星二、どちらも救う手はひとつしかない。
「わかりました。三日ですね。私にお任せください。真犯人もアルマも、あなたの前に連れてまいります」
5
高神に真犯人の捜査を約束してから、ヒヅルは人工全能の合同訓練に参加しなくなり、食事などの雑事当番も他の者たちに頼んでいた。
「別にいいけどよ。どうしたんだ、ヒヅル。最近お前何か変だぞ」
旭に炊事当番の代行を頼んでみたものの、彼が訝しむのも無理はなかった。ヒヅルはいつものように笑い返す余裕はなく、どうアルマを守り抜くか、高神を出し抜くか、思考が堂々巡りしてしまい夜も満足に眠れず、眼の下にはクマができており、心なしか|窶《やつ》れて見えた。
「最近少々体調が優れなくて。ほゝ、おほゝゝゝ」
「無理するなよ。お前やっぱり、アルマが失踪した件について何か隠してるんじゃないのか」
「どういう意味です」ヒヅルは動揺を悟られまいと、平静を装った。しかし高神に追いつめられ、タイムリミットも刻一刻と迫っていたため、焦りがあったというのが正直なところだろう。
「ちょっといいか」
周囲の眼が気になったのか、旭はヒヅルを薄暗い物置部屋まで連れていった。監視カメラや盗聴器の存在を気にしていたのか、終始きょろきょろしていた。そして安全を確認できたのか、ふたたび口を開いた。
「俺だって、できればアルマを助けたい」
ヒヅルにとって旭のその言葉は予想外で、しかし何よりも心強かった。
「もしお前がアルマを匿っているなら、俺はお前の味方だ。俺にも、アルマのために何かできることはないか。ひとりで全部抱えこもうとするな。相手はヘリオスだ。仲間が必要だろ。アルマはたしかにだめなやつだけど、だからって、何も殺すことないじゃないか。俺だって、今回の高神のやり方にはむかついてるんだ」
ヒヅルには旭が嘘をついているようには見えなかった。歓喜したヒヅルは、いてもたってもいられず旭の手をとった。
「ありがとう。旭。正直、行き詰まっていました。私ひとりでアルマと……それから星二を助けるのは困難だと」
「星二って……朱井さんのことか。彼も、高神に捕まったのか」
「拷問部屋に監禁されているようです。高神からそう聞きました」
ヒヅルは旭を信頼し、すべてを打ち明けた。高神からアルマを匿っていると疑われていること、星二が人質にとられていること、そして三日以内に手を打たねば星二が殺されるかもしれないこと。
「そうか。今までひとりでアルマのために戦ってたんだな。でも、たまには仲間を頼れよ。みんなお前が最近おかしいって、心配してるぞ。俺だけじゃない。陽とか月世とか、話せばみんな助けてくれるさ。一緒に戦おう。お前はひとりじゃない」
「旭」
ヒヅルの眼から、|堰《せき》を切ったように涙がぼろぼろと、溢れ出した。
日頃の超然とした態度とのあまりのギャップに戸惑ったのか、旭はのけぞり気味に|頭《かぶり》を振った。「お、おい。大丈夫か。どこか痛いのか」
「もう大丈夫ですよ、旭。あなたという弟がいて、本当によかった。あなたが、みんながいれば、百人力です」
6
自らの能力に絶対の自信を持っていたヒヅルは、今まで人に頼るということをしてこなかった。そうしなくてもすべて己の力で解決できたからだ。
しかし今回初めて窮地に立たされ、旭の言葉によってヒヅルは考えを改め、アルマと星二を救い出すためにも信頼できる仲間を集めることにした。無論誰もがヒヅルに協力的というわけではない。中にはヘリオスの報復を恐れ、非協力的な者、高神らに密告する可能性のある者もいる。誰かひとりでも裏切れば、今回の救出作戦の遂行は著しく困難になる。
だが人の本性を見抜くことに関しては、ヒヅルの右に出る者はいなかった。〈人工全能〉の中でもずば抜けた観察眼を持つ彼女は、嘘をついた人間のありとあらゆる身体の微細な変化を見逃さない。〈人間嘘発見器〉が、信頼できる仲間だけを集めるのは決して難しくなかった。
「問題は、星二さんがどこに捕らえられているか、だな」
秘密の作戦会議室で、陽が言った。照明を使えば部屋の利用を察知されるため、部屋を照らす光源は一本の蝋燭の火のみであった。
「明子は何も知らないのかしら」月世がその肩まで伸びた白髪を指でパスタのようにくるくる巻きながら言った。
「知らされていないでしょうね。明子はアルマの処分には反対していて、高神のところまで抗議しに行ったようです。反乱分子として眼をつけられていてもおかしくはありません。明子が今も研究を続けていられるのは、他にヒデルの育成を担当できる者がいないからでしょう」ヒヅルがその腰ほどまで伸びた長い髪を真紅のリボンで束ね、言った。
「タイムリミットまであと十時間しかないぞ。このままでは朱井さんが殺されちまう。何か策はあるのか。ヒヅル」集まったメンバーの中でもひときわ図体のでかい旭が言った。ヒヅルの腰ほどの太さもあるその筋骨隆々とした二本の腕が、蝋燭の火に照らし出されて夕刻のヒマラヤ山脈の如く輝いていた。
「そうですね。ひとつだけあります。が――」ヒヅルが言った。彼女の神秘的な黄金の瞳が蝋燭の火に照らされて夕日色に輝いていた。「それにはある人物の協力が必要です。私はこれから〈彼〉のもとに交渉へ行き、成功すればそのまま〈作戦〉の準備に入ります。その間、陽は引き続きアルマの保護と世話を。月世は高神たちの動向を見つつ、陽のサポートをお願いします。旭は明子の様子をそれとなく見ておいてください。彼女のことなので、星二が捕らえられている今、何をしでかすかわかりません。また高神に突っかかり余計な仕事を増やされては困る」
ヒヅルが作戦部隊のリーダーを務めることに異論を挟む者はいなかった。彼女は仲間ひとりひとりの能力を把握し、最適の役割を与えることに長けていた。名前に反して細かい気配りに長け、隠密行動に秀でた陽は人眼を盗んでアルマの世話をするのに向いているし、月世はその外面の良さから高神らヘリオス陣営のウケが良く、人工全能の中では料理以外は最優等生として見られている(ヒヅルは成績や実績こそ抜きん出ていたが、今回のアルマの一件で問題児とされている)ため、高神らの動きを把握するには最適である。旭は勇猛果敢で強靭な肉体を持ち、戦闘能力に優れ、いざという時にヘリオス陣営の手から明子を守るにはうってつけである。今回のヒヅルの采配には、全員が納得していた。そうでなくともヒヅルはただひとりの第一世代人工全能であり、年長者ということもあってよく他の人工全能たちの世話を焼いていたため人望があり、ヒヅルの言うことならば大抵は誰もが聞き入れていた。
「我々の動きをヘリオス――殊に高神麗那に察知されてはなりません。あくまで何事もなかったように授業に参加し、訓練を受けることを忘れないでください。もし万一のことがあったら、この無線機を使って私に連絡を。簡単には盗聴できぬよう特殊な暗号を使って通信できますが、いざという時以外は使わないように」ヒヅルは豆粒程度の小型無線機を皆に手渡した。そのあまりの小ささと精巧さに、旭が眼を丸くした。
「すごいな、これ。お前が作ったのか? ヒヅル」
「いえ。私ではありません。アルマが廃材を利用して作ってくれました」自慢の妹、とでも言いたげにヒヅルが誇らしげに言った。
「驚いたな。アルマにこんな才能があったとは」名前に反していつも無愛想な陽ですら、興奮を隠しきれていなかった。
「すごいわね。これ、高神たちに教えればアルマちゃんの〈処分〉も取消しになるんじゃないかしら」月世が小型無線機を耳に装着して動作を確認しながら言った。
「可能性はなくはないですが、失敗した時のリスクが大きすぎますね。あくまでも最後の手段でしょう」月世の提案をヒヅルが退けた。「それに高神のことですから、星二を無罪放免にするとは考えにくい」
臆病者の剣持とは違い、高神はヘリオスに楯突く者には本当に容赦がない。ヒヅルに勝手にカードキーを貸与した星二(本人は否定しているが)も人質として有効だから生かされているだけで、本来はすでに反逆罪で殺されていてもおかしくないのだ。
一九九一年十二月二十八日未明。作戦の下準備は首尾よく進み、ついに決行されることとなった。
「皆。私の妹のために協力してくれて、本当にありがとう。すべてのカードは揃いました。あとは実行するのみ。全員で必ず生き残り、祝杯をあげましょう」秘密作戦会議室にてヒヅルが旭や陽、月世らに深々と頭を下げた。
「何言ってんだ。『俺たちの妹』の間違いだろう」旭が朗らかな笑みで親指を立てた。
「アルマのことは私に任せろ」陽が相変わらず名前に反した仏頂面で言った。
「援護は任せて。ヒヅル。死なないでね」月世が緊張した面持ちで言った。
個々の能力ではヘリオスの精鋭部隊をも凌ぐ〈人工全能〉たちの唯一の欠点は、経験の不足であった。そこをヒヅルが統括し、彼らの能力を百パーセント発揮させることで、彼らはまるで百戦錬磨の特殊部隊の如き働きをした。アルマや明子を安全な場所まで隔離し、ガソリンを利用して作った即席の爆弾で通路を塞ぎ、外部との通信を遮断して増援が来るのを防止した。
そして――
「いったい何をやってるんだ、ヒヅル。すぐに所長を放せ」
所長室に潜入したヒヅルは、自らの生みの親とも言える人工全能研究所の所長|白金暁人《しろがねあきひと》を拘束し、兵士から奪った銃を突きつけ、カメラ越しに指導委員室にいる高神らを、脅迫していた。
7
人工全能研究所の所長、|白金暁人《しろがねあきひと》。日本はおろか世界でも稀代の遺伝子工学研究家としてノーベル生物学賞を受賞した彼は、元より〈全能の存在による全人類の統治〉という途方もない目標を掲げ、自分で立ちあげた財団で秘密研究施設を設立、禁忌である人間の遺伝子改良研究を繰り返していた。それに眼をつけたヘリオスの元締めであるブラックメロン家のハロルド・ブラックメロン二世は、暁人に無償での出資話を持ちかけた。ノーベル賞研究者とはいえ、人工全能の研究にかかる費用は莫大であり、倫理に反しているとの批判も根強く、国家や投資家による支援は一切なかった。暁人は資金難によって研究の中止を余儀なくされており、断るという選択を持てなかったのだ。もちろんおいしい話には裏があり、今や人工全能研究所はヘリオスの次世代幹部や兵士を生み出すための養成所と化してしまったのだが。
ヒヅルは自らの生みの親とも言える白金暁人を拘束し、兵士から奪った銃を突きつけ、カメラ越しに高神らを脅迫していた。
指導委室から所長室にいたるまでの通路はすでに月世たちが仕掛けた爆弾によって爆破、崩落しており、高神らが所長室まで攻め入るのは不可能だった。すべてがものの十数秒で同時に完了してしまったため、高神ら指導委員たちがヘリオスの鎮圧部隊を呼びつける暇もなく、また鎮圧部隊の待機室までの通路も爆破されていた。
案の定というべきか、所長室へ至る道には防弾鎧で武装したヘリオスの警備兵が何人か巡回していたのだが、彼らが束になってもヒヅルには敵わなかった。弾丸の発射から零秒で反応できる〈全能反射〉に加え、獣のごとく俊敏な動きで弾丸は壁を穿つのみ。易々と銃を奪われ、防弾鎧も関節はむき出しなので、そこに弾丸を精確にたたきこまれ、五体のうち四体が不満足になってしまった警備兵たちにはすでに立ち向かう力はなかった。しかも相手はヒヅルひとりではなく、旭や月世をはじめとする十八人もの人工全能がいた。もはや高神らにどうにかできる案件ではなかった。
「放してもかまいませんが、条件がふたつ。ひとつめは星二の釈放、ふたつめはアルマの〈処分〉撤回と安全の保障。以上です」
「いいから所長を放せ。アルマもろとも〈処分〉されたいのか」
それはヒヅルの知っている高神の顔ではなかった。まるで害獣を屠殺する|狩人《ハンター》よろしく冷酷で、ヒヅルたちを畜生か何かの如く見下した、そんな態度であった。
だがヒヅルは淡々と切り返す。
「では彼を解放することはできませんね。我々の要求は先のふたつのみ。〈人工全能計画〉は白金暁人所長なくして成り立たない。星二とアルマの釈放と、〈計画〉の破綻。どちらか選ぶのは、高神麗那、あなたにお任せします。我々は同胞を救うためなら手段は選びません」
数分ほど|膠着《こうちゃく》状態が続き、とうとう折れたのは、高神の方であった。
「わかった。いいだろう。ヘリオスとしても、〈計画〉の頓挫は本意ではない」
高神のその言葉に、ヒヅルはにっこりと微笑んだが、所長に突きつけた銃はまだ下さなかった。
「あなたが合理的判断のできる方でよかった。では、まず星二をこちらに引き渡していただきましょうか。危害は加えてないでしょうね」
アルマや星二を解放するよりも、暁人が死んで〈人工全能計画〉が頓挫してしまうことを恐れた高神は、ヒヅルの要求を飲み、人質の交換に応じることにした。かくしてヒヅルたちは星二を救出し、アルマの生存を勝ち取ることに成功したのであった。もし約束を反故にしてアルマを処分しようものなら、人工全能がふたたび一斉に蜂起し、今度こそ計画は破綻となるであろう。研究所に配属されたヘリオスの鎮圧部隊も、今回のような人工全能の一斉蜂起までは想定していなかったらしく、完全にお手上げ状態だった。
「くそ。あの野郎。現状把握もしないで私にすべて丸投げしやがって。こんな少人数であの化物どもをどうコントロールしろと」激昂した高神は通信機の受話器を床に叩きつけ、破壊した。
あの人質交換作戦から数日。ようやく通信設備が回復し、高神は早速今回の事件をヘリオスの日本支部、つまりは自分の上官へと報告した。ヘリオス日本支部のナンバー3であり、政権与党愛国党の幹事長を務める鷹条林太郎衆院議員は、今回の事件の惨状を聞いても特に増援を寄越すことはなく、与えられた予算と人員を使って何とかするように、と、突き放した。高神もまた若くして極秘研究所の指導委という決して低くはない地位まで上りつめ、将来の幹部候補と言われているだけに、大きな期待とともに高い成果をあげることを求められている。彼女も彼女なりに大変なのだ。
だが、問題はそこではなく、高神ら人工全能研究指導委員会に与えられた、新たなる任務の方であった。
今回の集団蜂起を受け、ヘリオス内部では「人工全能危険説」が急浮上した。
ヒヅルたちは丸腰にも拘らず、猛者揃いのヘリオスの兵士たちをいとも簡単に無力化し、要求を通してしまった。
『人工全能たちは有能すぎて、将来ヘリオスに牙を剥く不穏分子なので、ただちに研究を中断して彼らを全員抹殺せよ』
それが高神ら指導委に下された、新しい指令であった。
8
先手必勝。勝負事において、守り手よりも攻め手の方が原則的に有利、という考え方だ。守り手は相手が動いてから対処しなければならないが、攻め手は攻撃のタイミングを自由に決められる。ヒヅルたち人工全能が経験で勝るヘリオスの鎮圧部隊を無力化し、星二やアルマを救い出せたのも、周到に準備し、攻め手に回ることで攻撃のタイミングを一斉に集中させたためである。
人工全能がどんなに有能であっても、二十四時間警戒し続けるのは無理がある。また今回の高神ら指導委の行動は迅速で、意思決定から即座に作戦を実行してきたため、ヒヅルたちに対策をしている暇はなかった。
守勢に回った人工全能たちはヘリオスの鎮圧部隊に容赦なく夜襲をかけられ、手も足も出せず、ただ逃げ惑うしかなかった。ヒヅル個人がその気になれば兵士を何人かまとめて殺すことくらいはできても、彼女は人工全能たちのリーダーとして、非力な仲間たちを守らなければならなかった。いくら遺伝子改造されているとはいえ、第二世代の人工全能はまだ成人前の経験の浅い新兵にすぎず、百戦錬磨のヘリオスの兵士たちと正面からやりあえば勝ち目は薄い。ましてやアルマたち第三世代はまだ十歳前後の子供、第四世代のヒデルに至っては赤子なのだ。
「あいつらは俺とヒヅルで食い止める。お前たちは逃げろ」旭が兵士から奪った短機関銃MP5で弾幕を張りながら叫んだ。
「月世。|暁人《あきひと》――いえ、所長にお願いして、彼の財団に保護してもらうのです。彼は味方です」ヒヅルが兵士から奪った二挺のベレッタで旭を援護しながら言った。
星二を救出する際、ヒヅルは所長である白金暁人を人質にとったが、実のところ暁人はヒヅルとグルで、事前に作戦に協力してもらうよう交渉を済ませていた。暁人も星二を人質にとる高神の強引なやり方に苛立ち、どうにかしたいと思っていたのだ。さらにこれはヒヅル本人は知らないのだが、暁人にとってヒヅルは、自身の細胞を使って自らの手で生み出した最初の個体ということもあり、特別な愛着があった。娘の頼みを聞いてやりたいという親心だったのかもしれない。
どかあん。
膠着を破ったのは、ヘリオスの兵士が放った、一発のロケット弾であった。
間近で炸裂したそれは、炎と大量の金属片と瓦礫と化して、ヒヅルたちに襲いかかった。
「大丈夫か。ヒヅル」
旭の声が、聞こえた。
|咄嗟《とっさ》に伏せたはいいものの、至近距離だったため負傷は避けられない。そう考えていたヒヅルだったが、身体のどこにも痛みはなかった。それより、上にのしかかっていた百二十キログラムをゆうに超す旭の巨体が、重かった。
「早く逃げろ」
小声でそう呟いた旭の身体は、がくがくと激しく震えていた。
「あさ――」
よく見ると旭の背中は爆炎に焼かれてしまったのか、自慢の赤きタンクトップは見る影もなく、人工全能特有の白い肌が広範囲に渡ってどす黒く焦げてしまっていた。さらにその左脚は膝から下が消失し、もはや走って逃げることが不可能なのは明らかだった。
ロケット弾が炸裂する直前に、旭がヒヅルの上に覆い被さり、その大きな身体で、彼女を守ったのだ。
「俺はもう走れねえ。お前は行け。皆を守れ」
「だめ。だめです。旭。あなたも、生きるのです」ヒヅルは旭の惨状を直視できす、震えたか細い声で懸命に|頭《かぶり》を振って否定した。
これが物語ならば、お涙頂戴のお別れシーンが終わり、旭が息を引き取るまで敵も空気を読んで待っているのだろうが、これはまごうことなき現実。案の定高神らは反撃が止んだと踏んで無慈悲にも一斉に弾幕を張りつつ前進してきた。
「終わりだ」
高神のグロック17の照準がヒヅルに向けられた、その瞬間であった。
「うおお」
旭がヒヅルをはねのけ、MP5を乱射しながら、消失した左脚の〈断面〉を地面に引きずって高神らに決死の特攻を、かけた。が――
そんな彼の抵抗も虚しく、非情な現実が突きつけたのは、瞬時に全身に風穴を開けられた、旭の無残な死に様であった。
あまりに一瞬だったため、ヒヅルが逃げる時間を稼ぐこともなく、また弾丸に脳漿を抉られてしまったため、最後の感動的な愛の台詞を叫ぶこともなく、事切れてしまったのだ。
「うわははは。こいつは傑作だ。旭のやつ、アクション小説のヒーローのつもりか。まったく。お涙頂戴。これじゃ私が悪役みたいじゃないか。でも残念、現実は非情なのだ。ふっはっはっは」武蔵坊弁慶の如く立ち往生した旭を高神が指差し、|嗤《わら》った。
「麗那」
激昂したヒヅルは咆哮し、|怨敵誅殺《おんてきちゅうさつ》とばかりに銃を乱射したが、動きを完全に先読みされ、難なく銃弾を避けられてしまった。
そして怒りに我を忘れていたせいか、背後から急接近してきた剣持の存在に、気づくのが遅れた。
振りおろされるは|山姥切国広《やまんばぎりくにひろ》三尺二寸五分の名刀、剣術に関してはヘリオス随一の腕前を誇る剣持の、渾身の一撃。
ヒヅルは剣持の存在を認識すると同時に回避行動に移ったため、首を落とされることだけは免れたが――
ぼとり。
ヒヅルの右手が、地面に落下した。
「馬鹿が。あっさり挑発に乗りおって。私の教えを忘れたのか。戦場で冷静さを失ったやつは死ぬ。こんなものは基本中の基本だ。未熟者めが」ありったけの侮蔑をこめて高神がヒヅルを罵った。
そんな彼女の言葉は届いていなかったのか、ヒヅルは茫然自失とした表情で、自身の分離した右腕を、見ていた。
頭の中が、真っ白だった。
今まで死を意識するほどの、本当の修羅場を経験したことが、ヒヅルにはなかった。彼女の仕事は常に完璧だったが、それがかえって仇となったのだ。
そしてとどめ、と言わんばかりに高神の銃口が向けられ――
ぱあん。
乾いた音とともに、一発の弾丸が、ヒヅルの心臓に向けて、正確に、放たれた。
9
「月世。あなた」
剣持に腕を切り落とされ、隙だらけになっていたヒヅル。
だが、間一髪乱入した月世がヒヅルを抱え、小柄な体躯からは想像もつかぬ脚力で横に飛び、難を逃れた。
「危なっかしいわね。あなたらしくないわ。ヒヅル」
ヒヅルはすぐに、月世の〈異変〉に気がついた。
難を逃れたのは、ヒヅルひとりだけ。
ヒヅルを抱えて飛んだ月世の左脇腹から右脇腹にかけて、まるで猛獣か何かに食い破られたかのように大きく裂け、赤黒い血と臓物が、びちゃびちゃと溢れ落ち、純白のヒヅルの髪や肌を、グロテスクな|土留色《どどめいろ》で染めあげた。
「だめ、だった。逃げ、て」
口から勢いよく血を噴き出し、まるで糸の切れた操り人形のごとく月世は突然脱力し、地面に崩れ落ち、そのまま動くことはなかった。
「ごめんなさい」
ヒヅルはなかば悲鳴ともいえる声で叫ぶと、高神に背を向け、全力で駈けだした。
数秒前に浴びせられた月世の血肉から、まだほのかに彼女の温もりが、感じられた。
鉄火場には慣れていたはずだったのに、頭がどうにかなってしまいそうだった。
眼の奥が熱い。
溢れ出る涙が、視界を歪める。
まったく麗那の言う通りだ、と、ヒヅルは先程安易に挑発に乗り、怒りで我を忘れた己の未熟を呪った。
初めから冷静に戦況を分析し、撤退していたなら、右腕を失わずに済んだし、月世が死ぬこともなかったのだ。
せめて旭と月世が命を賭して守ってくれたこの命を使って、ヘリオスに追いつめられているであろう仲間をひとりでも多く救う。今のヒヅルの頭にあるのは、それだけだった。そして無我夢中で、走り続けた。
生き残った仲間たちと、合流しなければ。
自分と旭を除いた人工全能たちが、ヘリオスの部隊と正面からぶつかって勝てるわけはない。第二世代の人工全能は身体能力こそ勝っているが、戦場での経験がまるでない。そんな彼らが、第三世代の子供たちを守りながら戦えるはずがなかった。
左腕の袖を強引に引きちぎり、右上腕に巻きつけて即席の止血措置を行う。
大丈夫。かなり失血したが、致命傷ではない。
私の命は、もはや私だけのものではない。
私を助けるために死んでいった旭や月世に報いるためにも、私は生き残り、仲間を救い出さなければならない!
どんな手を、使ってでも。
10
ヒヅルは先に逃げた仲間たちと合流するため、まずは所長室へと向かった。
オリンピックの|短距離選手《スプリンター》すらも凌駕するヒヅルの圧倒的な走力には、ヘリオスの猛者ですらついてこれなかった。とはいえ、稼いだ時間はせいぜい数十秒。
耳に仕込まれたアルマ謹製の小型無線機からは、何の連絡もない。
陽は、無事にアルマと逃げられただろうか。
星二や明子、それにまだ赤子であるヒデルは、生きているだろうか。
みんな無事に、白金財団に送り届けられただろうか。
この期に及んで|暁人《あきひと》が協力を惜しむとは考えにくい。
だが、ヒヅルの期待は悉く裏切られることとなった。
「う」
眼の前に広がった惨状を見て、ヒヅルは短く声を|洩《も》らした。
まだ十歳前後の、第三世代の子供たちの、〈山〉。
全身をライフル弾でずたずたに引き裂かれ、原型を留めぬほどに〈分離〉された、その血塗れの肉塊の、〈山〉。
まるで畜生の如く処分されてしまった、家族たちの成れの果て。
それは彼らを本当の弟、妹のように可愛がってきたヒヅルにとって、悪夢そのものであった。
「みんな」
思わず泣き崩れそうになったヒヅルは、しかしまだ戦いは終わってない、と、内心で己を|叱咤《しった》し、正気を保った。
私がしっかりしなければ、それこそ皆殺しにされてしまう。
まだどこかで助けを必要としている者たちが、いるかもしれない。
ふと、子供たちの血の池の先に、刷毛で殴り書きしたような跡が続いていることに、ヒヅルは気づいた。
それは所長室の扉まで、続いていた。
ヒヅルは乱暴に扉を蹴破り、左手に持ったベレッタを、構えた。
中ではヘリオスの兵士がふたり、それと黒いスーツに身を包んだ長身の男が、仲良く地面に川の字になって倒れていた。心臓を正確に撃ち抜かれ、すでに生命活動を停止している。
スーツの男には、見憶えがあった。たしかヘリオス日本支部にいた幹部で、名を|細川護彦《ほそかわもりひこ》といい、表の世界では政権与党愛国党の重鎮として次期総理とも言われていたほどの男だ。そんな男が、なぜここに……いや、そんなことは今はどうでもいい。
所長室の奥には、この研究施設全体をコントロールする操作板が設置された制御室が隣接している。
這ったような血の跡は、そこへ続いていた。
恐る恐る、先ほどとはうってかわって、ヒヅルは慎重に扉を開けた。
「暁人」ヒヅルは小さな声で呼びかけた。
「ヒヅルか」
血で|斑《まだら》状に染まった白衣姿の人工全能研究所長、白金暁人が、操作盤の上に|凭《もた》れかかっていた。その操作盤の上の四十インチほどある大きさの液晶ディスプレイには、これまた血のように赤いデジタル数字が何かのカウントダウンを、始めていた。残り五分十一秒。
「まだいたのか。早く出ろ。あと五分もすれば爆発する」
銃弾に腹を貫かれてしまったのか、暁人の足元には赤黒い血肉が撒き散らされていた。
じきに高神たち敵の部隊がここへやってくる。彼を背負って走れば、間違いなく追いつかれ、共倒れとなるだろう。見捨てていくしか――
「陽とアルマ、それと星二と明子、ヒデルは、ここに来ましたか」
ヒヅルは冷淡な口調で、暁人に訊ねた。彼女がまだ死体を確認していないのは、この五人のみであった。
暁人は咳こんで大きな血塊を吐き出しながらも、はっきりとした口調でこう返事をした。
「私が会ったのは、扉の前で息絶えてしまった彼らだけだよ。財団の職員に迎えに来させようと思ったが、間に合わなかった。まもなく西口側の駐車場に黒のベンツが数台やってくるだろう。彼らに保護してもらいなさい」
「わかりました。ですが、もうじき高神たちがここへやってきます。申しわけありませんが、あなたを連れていくことは」
「構わんよ。どのみち、私はもうだめだ」暁人はもはや生を諦めてしまったのか、力なく笑った。「ヒヅル。お前は私の最高傑作だ。お前こそが、世界を統べるに相応しい。もしたった一度の親孝行をしてくれるのなら、お前が〈人工全能計画〉を、完成させてほしい」
「私はあなたを父親と思ったことはありませんよ。暁人」
ヒヅルは冷たくそう言い放った。彼、白金暁人はヒヅルのオリジナルであり、第一世代人工全能の精製は彼自らの手で行われていた。その証拠に暁人の顔はヒヅル同様目鼻立ちが整っていて、非常によく似ていた。しかしながら暁人は、障害を背負って生まれてきた者たちを容赦なく切り捨ててきたし、アルマの〈処分〉についても最初は賛成していた。最終的にヒヅルの人質交換作戦に協力したのは、部下である星二を救うためだったからに他ならなかった。ヒヅルはそんな暁人を、味方であるとは思いつつも、嫌悪していたのだ。
「ふん。最後くらい嘘でも優しい言葉のひとつもかけられんのか。親不孝者め。ならもういいから、さっさと行ってしまえ」
「お世話になりました」最後に深々と礼儀正しく頭を下げ、ヒヅルは所長室を後にした。
しかし、残り一分を切っても高神たち追撃部隊は現れなかった。
彼らは一体どこへ?
ヒヅルの中で、得体の知れない不安感が、急速に広がっていった。
11
「私です。ヒヅルです。|暁人《あきひと》が財団の私兵を寄越してくれました。西口側の駐車場で落ちあいましょう」ヒヅルは耳に仕込んだ無線機で、仲間たちにそう伝えた。
所長室を後にし、研究所を西口から脱出したヒヅルは、白金財団に保護してもらうべく森の中を|駈《か》けていた。剣持に切断された右腕の出血が止まらず、熱を持ち始めている。早く病院で処置をしなければ手遅れになるだろう。
『ヒヅル。私だ。研究所の東口の正門近くで敵に囲まれた。アルマもいる。助けてくれ』
無線機から陽の声が聞こえてきた。
「東口? わかりました。すぐに行きます」
ヒヅルは有無を言わずに来た道を引き返した。
研究所の東口を抜け、敷地の外へ出ると、鬱蒼とした森が広がっていた。陽とアルマは正門のすぐ前にある白金暁人の銅像の前に、座りこんでいた。
「ヒヅル、来るな。罠だ――」
陽がそう叫ばなければ、今頃ヒヅルは後方に潜んでいた高神によって、心臓を撃ち抜かれていただろう。
ヒヅルは銃声と同時に〈全能反射〉で素早く身を|捩《よじ》り、間一髪のところで被弾を免れた。
「よく避けたな」高神が笑顔で現れた。ただし悪魔の如く凶悪で歪な笑顔であった。
「ヒヅル。すまない。お前を呼ばなければアルマを殺すと脅されて」陽が悔しそうに歯噛みし、謝罪した。
「いえ。よく呼んでくれました。あなた方が無事で何よりです」
「ところがどっこい。無事じゃないんだなあ」高神が右手を上げると、さらに潜伏していた鎮圧部隊の兵士たちが四人、一斉に姿を現した。
「ゲームオーバーだな。ヒヅル。最後に何か言い残すことはあるか」
「陽。まだ走れますか。私が彼らを引きつけますから、その間にアルマを連れて、なるべくここから離れてください。アルマもあなたも、無事でなければ承知しませんからね」
「すまない。本当にすまない」陽はアルマを強く抱きしめ、立ちあがった。
「馬鹿が。そんなことをみすみす許すとでも思っているのか。おい、そのガキどもはもう用済みだ。殺せ」
高神が冷酷にそう命じると、四人いるうちの兵士の二人が、陽とアルマに襲いかかった。
しかしヒヅルがすかさずベレッタで弾幕を張り、妨害した。
「どこを見ているのです。あなた方の相手は、この私ですよ」
ヒヅルの身体能力は人工全能の中でも抜きん出ていて、ヘリオスの中でも精鋭中の精鋭である高神をも凌駕している。が、しかしヒヅルに戦い方を教えたのは高神である。如何に人間離れした動きで翻弄しようとしても、ヒヅルの戦いのパターンを、高神は手に取るように把握していた。そして相手は高神ひとりではなく、さらに右腕まで失ったヒヅルに、到底勝ち目はなかった。全能反射で弾丸を躱すのが精いっぱいで、とても反撃する余裕などなかったのだ。
「無駄なあがきを。運良くここから逃げ延びても、ヘリオスの追手からいつまでも逃げられるはずもない。お前たち人工全能は、歴史の表舞台に名を刻むことなく、消えていくんだよ。それが〈組織〉の意向。まったく、あんなことさえしでかさなければ、最年少のグレートオリエントになれただろうに、アルマひとりのために馬鹿なことをしたもんだな。お前はもっと利口なやつだと思っていた」失望した、と言わんばかりに高神はため息をついた。
「妹ひとり救えぬ者が世界を動かそうなど片腹痛い」
「違うな。世界の頂点に君臨する者は、公正でなければならない。たったひとりのために全員の身を危険に晒すなど阿呆のやることだ。事実、お前がアルマを救おうとしなければ、他の人工全能たちは死なずに済んだんだよ。旭も、月世もな」
「そうですね。彼らを死なせてしまったのは、私の力不足故。|忸怩《じくじ》たる思いです」ヒヅルは悲しそうな顔でそう零した。
「何だ。えらく素直じゃないか。反省しているのか。それとも命が惜しくなったのか」高神が意地の悪い顔でヒヅルを苛めるように言った。
「でも私はアルマを助けたことを後悔しておりません。ヘリオスこそが人類にとって真の災厄なのですよ。麗那。私は必ず生き残り、ヘリオスを打倒するための組織を作り、ヘリオスに代わって平和で豊かな世界を築きあげてみせる。全能の存在による全人類の統治。それこそが人工全能計画の目的であったはず」
「うわははは。そんなざまでよくもまあ大言壮語を吐けるものだな。ある意味感心するよ。死を眼の前にしてやけっぱちになっているのか」
「かもしれませんね」
戦いはしばらく膠着していたが、長時間の失血が災いしたのか、ヒヅルにほんのわずかなではあるが、隙ができた。
無論それをみすみす逃す高神ではなく、とうとうヒヅルは左腕に銃弾を受け、銃を落としてしまった。
絶体絶命の、窮地に追いやられた。
右腕を失い、左腕に重傷を負い、もはやヒヅルは戦える状態ではなかった。
どうする。玉砕覚悟で足だけで足掻いてみるか? ヒヅルは自問した。
「チェックメイト、だな。ま、これだけの人数を相手によくやったと思うよ。まったく末恐ろしいやつだ。最後に何か言い残すことはあるか。一応お前の教育を担当した身だ。聞き届けてやろう」そう言い放った高神の顔は、奇妙なまでに優しかった。
あと四十。
「麗那……いえ。教官。私がすべて間違っていました。若さ故の誤ちでした。どうか、許してください」
ヒヅルは唐突に|跪《ひざまず》き、高神に命乞いをしはじめた。
「ぷ。あはははは」ヒヅルの行動が予想外だったのか、高神は噴き出し、下品に|哄笑《こうしょう》した。
三十二。
「何だ何だ。やはり死ぬのが怖くなったのか。さっきまでの勇ましさはどこへ行ったんだ。え」高神がヒヅルを指差して嗤った。「だったら、おとなしくアルマを差し出して命乞いでもしてみるか? そうしたら考えてもらえるかもしれないぞ」
二十四。
「それは」ヒヅルは一瞬|躊躇《ちゅうちょ》し、続けた。「実はアルマについてお伝えしていなかったことがあります」
「ほう。言ってみろ」高神は面白そうに口角を吊りあげた。
「これを。研究所の廃材でアルマが作ったものです」ヒヅルはアルマの作った小型無線機を取り外し、高神に渡した。「アルマにはあなた方の知らない優れた才能があります。これでどうか、彼女の処分を考え直していただけませんか。この通りです」
高神は感心したのか、眼を丸くした。
「なるほど。事実なら大したものだ。が、それを説明したところで今さら組織の決定は覆らんよ。お前という才能を失うのは私も惜しいが、組織はもはやお前たち人工全能を危険分子と看做している。残念だが」
十二。
「ならば。私が責任を持って彼らを統率します。彼らは私の言うことなら聞き入れるはず。ヘリオスの優秀な駒となるよう、この私が責任を持って――」
ヒヅルの懸命の説得を遮り、高神は手を突き出し、首を横に振った。
「無理だな。お前のことだ。そんなことを言ってこの場を切り抜け、ヘリオスに対抗するための秘密結社でも立ちあげる魂胆だろう。私はお前のしたたかさについてよく知っているつもりだ。お前という悪の芽を、ここで摘みとっておくのが私の」
三、二、一……
「麗那。私の勝ちですわ」
ヒヅルは突然不気味で歪な笑みでそう言い放ち、そして派手に横飛びし、地面に伏せた。
直後。研究所の各所が、強力な爆弾によって、同時に、木っ端微塵に、消し飛んでしまった。
今までどこにそんな爆薬を隠していたのか、それは若くしてノーベル賞科学者となった天才・白金暁人の深慮遠謀によるものだったのかもしれない。
原爆と見紛うほどに巨大なキノコ雲を上げ、周囲には大木をも瞬時になぎ倒すほどのすさまじい爆風が、吹き荒れた。
ヒヅルは所長室を後にした時から、研究所の爆発までの時間を、戦いながらも正確に脳内で秒読みしていたのだ。
何も知らなかった高神らはまともに爆風に巻きこまれ、ふきとばされていった。
12
「生き残ったのは私とヒヅル、そしてアルマ。三人だけか」
名前に反していつもは無表情な|陽《よう》が、珍しく悔しそうに表情を歪ませて言った。
「陽。月世の死に関しては、私の過失です。償っても償いきれません。本当にごめんなさい」
ヒヅルが深々と陽に頭を垂れて詫びた。陽と月世はほとんど同時に生まれ、双子の兄妹のように育てられていたのだ。
「謝らないでくれ。悪いのはヘリオスのやつらだ。むしろあんな連中を相手にして、よく生きのびてくれた。私もアルマも、お前が助けてくれなかったら、やつらに殺されてただろう」
アルマは陽とともにヘリオスの部隊の追撃からうまく逃れ、生き延びていた。だが次第に追いつめられ、殺されかけていたところで、ヒヅルが映画のようなタイミングで敵を仕留め、九死に一生を得たのであった。眼の前で死んでいく仲間たちの姿を見ていたのか、自身が殺されかけた恐怖からか、アルマは涙を流しながら黙りこんでいた。
「星二たちを見ませんでしたか。陽。おそらくヒデルも一緒だったと思うのですが」
ヒヅルの問いに対し、陽は首を横に振った。
その後、ヒヅルたちは白金財団の私兵たちに保護され、しばらく療養していたが、星二たちが見つかったという情報が入ってくることはなかった。ヘリオスの兵士にすでに殺されてしまったのか、爆発に巻きこまれて木っ端微塵にふきとんでしまったのか……もはやヒヅルたちに知る由はなかった。
それからヒヅルは白金財団の保護下で傷を癒し、失った右手は当時の最先端技術で作られた精巧な義手に置き換えられた。
ある日、すっかり快復したヒヅルの元に、ひとりの男が訪れた。
「全能なる存在による全人類の統治。それこそが、白金博士の望みでした。この不完全で混沌とした世界の統治を、全知全能の〈神〉の手に委ねると。ヒヅル――いいえ、〈白金ヒヅル〉様。あなたは博士の生み出した唯一無二の本当の〈人工全能〉。あなたこそが、世界の統治者にふさわしい。どうか我々人類の世界に光を。この世界の闇を照らす、新たな太陽となってほしい。どうか我が国を、そして世界を、導いていただきたい」
白金財団の副理事長を務める壮年の男、|大嶽克典《おおたけかつのり》が、ヒヅルに跪いてそう言った。
「白金暁人の遺志は、私が受け継ぎます。世界は必ず征服する。暴力と恐怖に依るヘリオスの支配に終止符を打ち、すべての人間が平和で豊かに暮らせる、〈完全世界〉を築きあげるのです」
「何なりとご命令を。ヒヅル様――我らが〈偉大なる太陽〉よ」
時代はちょうどIT黎明期。今後はコンピュータ技術において抜きん出ることこそが巨万の富をもたらすと考えたヒヅルは、独学でコンピュータ関連の知識を身に着け、わずか三日で当時最も先進的なコンピュータOS〈|SUNS《サンズ》〉を開発。ソフトウェア企業〈ナノソフト〉を創立し、一気に億万長者となった。そこで得た資金で白金グループを設立。世界中から優秀な人間を集め、ITのみならず、ありとあらゆる分野へと手を拡げ、世界の長者番付でも一、二を争うほどの富豪となる。ただしそれは表向きの話で、裏では潤沢な資金を用いて〈白金機関〉を創設し、世界を水面下から変えるべく、活動を開始したのであった。
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