薄氷に踊る
例えば世の中には、伝説や神話と名のつく物語がたくさんある。太古の地球で、神々や英雄たちがいかに活躍していたか? あるいは非力な人間たちが、怪物や悪意ある神の手をどうして切り抜けたか?
そんな物語はすべて、大昔の出来事として語られる。むかし、本当にあったことなんだよと前置きされる。けれど、それらは決して過ぎ去った物語なんかじゃない。今だって戦っている人たちがたくさんいる。それらは語られるよりもっと生々しくて正義も悪もない、うん、それって現実なんだ。
僕らは――僕とアランは、太古の神話に語られるようなおぞましい物語をいくらか経験した。この現代、二十世紀を迎えたアーカムの街で。僕らの冒険は人々に知れ渡るようなこともないし、街に迫っていた危機を知らしめて名声を手にしようとも思っていない。
ただ朝を迎えて、コーヒーを淹れてパンを食べ、新聞を読みながら週末の予定を考える。そういう時間をこれからもゆっくり過ごせたら、それだけで構わないんだ。
平穏は薄氷を踏むようなもので、いつまた砕け散るとも限らないのだし。
「ねえ、アラン」
「あ?」
僕がデスクに着く頃、たった今ようやく起きたと言った風のアランが階段を下りてくる。背が高くて髪はぼさぼさ、いつも人相が悪いけど、寝起きは特に最悪。かつては街のギャングに関わっていたと聞いたけど、そうでなくてもその筋の人間にしか見えない。
「週末、映画でも行かないかなって」
「何だそりゃ。デートなら向かいの受付嬢でも誘いな」
「違うよ、ばか。観たいのはニュース映画」
僕はパトリック・エース。このエース探偵事務所の二代目所長。先代所長である父は少し前に事故で亡くなって、当時まだ助手だった僕のほかに所員はおらず……というわけ。アランは僕の助手。ちょっとした事情と人手不足で、僕らは手を組んでいる。
「土曜に新しいフィルムが入るんだけど、ミスカトニック大学の南極探検隊の様子をやるんだって」
「へえ、それで」
「それでって、気になるだろ。氷山とか、犬ぞりとか」
「氷の山なんざ見て楽しいかね」
「それだけじゃないよ。新発見の生物や、空を覆うオーロラもやるんだぞ」
「ンなもん、先週ごまんと見たろうが」
アランは呆れたように言い捨てて、そのままキッチンへ姿を消した。パンはちゃんと焼きなよ、と声をかけたけど返事はない。
氷山、わくわくすると思うけどなあ、と独り言。先週まで大変だったから、気分を変えたかったのもある。路地や屋根裏にはびこるわけのわからない生物をどうにか焼き払って、それからその根源を追って旧焼け野にある貯水場まで行ったんだった。
太古の神話に語られるようなおぞましい事件は絶え間なく僕らを攻撃している。この現代、二十世紀を迎えたアーカムの街で、僕らの冒険は人々に知れ渡るようなこともない。
「ねえ、アラン。やっぱり映画、行きたいんだけど!」
これは束の間の平穏だ。薄氷は僕らが踏まずとも、いずれ夏の陽気によって溶け去るのかもしれないから。
by 木乃セイ
はじめまして、木乃セイと申します。読んでいただきありがとうございます。
かくどんには参加したばかりの身ではありますが、せっかくですので投稿させていただきました。
思いっきりクトゥルフ神話ものを書いてみたい!という欲望に任せて舞台設定をしたものの、本編の創作はあまり進んでおりません。今年中に執筆ができたらいいと思いつつ、その前に書く予定のものがいくつあるかな……という有様です。もし読んでいただいて、この二人の冒険に興味を持ってくださった方がいらしったらさいわいです。なんとか本編を執筆して、書けたよ、とお知らせできるようにがんばります。
表紙に戻る